都市計画の母ともいわれる土地区画整理事業

京都においては、大正14年以降に施行される

紫野柳公園はその土地区画整理事業によって整備された公園の最初の事例である

戦前土地区画整理事業

京都の戦前土地区画整理事業は、1920年の人口増加と都市発展に対して、旧市街地を取り囲む形で計画され、整然とした街区からなる郊外地域を創出していった。

それまで取り組んでいた市区改正条例に基づく北大路通と西大路通の整備が難航していたため、外郭環状道路の建設と市街地の整備を同時に実現するため、大正15年からは、改正された都市計画法に基づく都市計画事業としての土地区画整理事業を併用して市街地の整備を進めていった。

戦前の土地区画整理事業は大きく2つに区分できる。第一には宅地開発を主眼とする任意的土地区画整理(都市計画法12条認可)と市街地整備を主眼とする強制的土地区画整理事業(都市計画法13条認可)である。前者は基本的に組合施行であるのに対して、後者の場合、組合施行が難しい場合には市が代執行を行うことができる。

計画区域面積は1,035ヘクタールであり、外郭環状道路の沿道において、その道路幅員の約10倍(270メートル)の範囲を施行地区として事業が進められた。昭和3年には、隣接地域約370ヘクタールを追加し、区域面積は約1,405ヘクタールとなった。外郭環状道路として、北大路、西大路に加えて、九条通と東山通の一部も対象となった。

戦前、昭和16年までに全部で49地区の土地区画整理事業の認可され、換地処分が戦後ずれ込んだ20地区も含めて、ほとんどの地区の工事は戦前に完了している。

洛北中部五地区土地区画整理事業

京都で最初の区画整理事業は、小山花ノ木地区であるが、個人施行で施工面積も1.3ヘクタールと小規模である。

急速に進むのは、大正15年に認可された「むらさきエリア(紫竹・紫野界隈)」の中の紫野門前地区以降である。土地区画整理事業は、その土地の立地特性、開発状況、地権者の数などによって、様々な区画、用途に分類されるが、京都市北部の「住宅地域」に指定された地域では、12条認可の組合施行によって整備が進むが、なかでも大正末から昭和初期に開発され郊外住宅開発の嚆矢をなすのが、鴨川右岸の紫野門前(大正15年~昭和10年)、加茂(大正15年~昭和10年)、紫竹柴本(昭和4年~昭和11年)、上堀川(昭和7年~昭和12年)地区からなる地域である。高燥で住宅地に適する地域とした京都市の指導・助成を受け、その大半の地域を住宅地化していった。地域の大半は旧大宮村に属し、大正初めまでの土地所有者をみると7割以上が当該地域以外に居住することも、積極的に組合を結成し借家建築による土地利用を進める要因の一つと考えられる。

一方、東紫野地区(昭和4年~昭和11年)は、組合施行ではあるが都市計画法第13条認可の強制的土地区画整理事業として取り組まれている。これは、この地区が現北大路通の南北に渡る一定の市街化が進んだ地区であり、事業化を進めることが難しかったことによるものと推察できる。

そして、この五地区の範囲が概ね「むらさきエリア(紫竹・紫野界隈)」の範囲に合致する。この碑文によると、東は鴨川右岸、西は故大宮巷、南は北大路の南街、北は古土井の旧跡に至ると記載されている。

また、早いものは昭和2年6月に着工し、遅いものでも昭和8年9月に竣工したと記されている。現在では考えられないスピードである。正式には認可を受けた年と、工事が終了して土地の完治処分が終了して事業費の清算が終わった年が記載されているが、ほとんどの地区が1年から3年の工期で竣工している。

実際、事業化始まる前年の昭和1年からすでに住宅は着工されており、事業が終了した翌年の昭和9年までに、紫野門前地区では1500戸を超える住宅が建築され、東紫野地区でも1000戸を超える住宅が建築されるなど、積極的な住宅開発が進んでいる。そのほとんどは今日でいう京町家であり、借家として供給された。

当時の待鳳学区(現在のむらさきエリア(待鳳、紫野、鳳徳、柏野、紫竹学区)の範囲)の人口は大正9年に約1万人であったものが、15年後の昭和10年には5倍増の約4万7千人と急増している。そして急速な市街化は、商店や各種施設の立地を促し、今日の新大宮商店街の原点となっている。

また、地区内の道路幅員は最低で3軒、準幹線道路は6間、幹線道路は12間道路として整備され、街区は採光を重視して横長の格子状とし、街区規模は東西50~70間<南北25間~30間で整備された。

これによって、今日の「むらさきエリア(紫竹・紫野界隈)」の整然として落ち着きのある居住環境が形成されていった。

紫野柳公園

戦前区画整理事業によって、整然とした市街地が整備され、同時に公園も整備された、洛北中部五地区土地区画整理地域内にも4つの公園が整備され今日でも子供たちの歓声が聞こえてくる。その中の一つが東紫野地区内に整備された紫野柳公園である。

完成は区画整理の終了と同時の昭和10年である。閑静な住宅地を歩いていくと低く長い公園の塀が現れる。入り口にはコンクリート製のアーチ型の門柱が対になっており、そこから頂部がアールになった同じくコンクリート製の低く長い塀が東西に細長い公園を区画している。東側の入り口近くには立派な出世地蔵の祠がある。

中には滑り台、ブランコ、砂場、ジャングルジムなどの遊具とともに、一番奥にラジオ搭と一体になったテラスがある。

市内にはまだ多くラジオ搭が残っているが、このラジオ搭のデザインは独特である。他のラジオ搭の多くは屋根付きであるが、このラジオ搭の頂部はやはり入口の門柱と同様に頂部がアール状となっておりそれにスリットが入っている。丸窓に格子のデザインのテラスとともに、凝ったデザインとなっている。さらに、ラジオ搭の背後には国旗掲揚の橋を取り付けるような細工の跡があり、国旗掲揚台を兼ねていたと思われる。

洛北中部五地区区画整理碑

公園の中でひときわ目を引くのが、洛北中部五地区区画整理碑である。この碑は、紫野門前、賀茂、紫竹柴本、東紫野、上堀川の各土地区画整理事業の完成を記念して、昭和10年9月に五つの土地区画整理組合が共同して建てたものである。

石碑はいくつかの石によって囲われており、台座を入れると高さが3メートルを超え、幅も2メートルを超える大きさである。

隣接して、五地区の土地区画整理事業を中心となって進めた二人のリーダー、池田新兵衛と船越嘉右衛門の業績を顕彰するために、五つの区画整理組合の共同で建立したものである。二人の業績と合わせて、各区画整理組合の組合員数と役員の名前が刻まれている。

この二つの碑を見ると、先人の熱意と努力によって、むらさきエリアの今日があることを実感させられる。