北区紫竹には、源義朝の別邸があったとされ

常盤御前はこの地で牛若丸を生んだといわれている

周辺には牛若町という町名が残り

牛若丸・常盤御前ゆかりの伝承や史跡が点在している

常盤御前

平安時代の末期の女性・常盤御前は美しい人であったと伝わる。近衛天皇の皇后に仕えた後、16歳で源義朝の側室となり、今若丸、乙若丸、牛若丸(源義経)を産む。牛若丸が生まれたのは平治の乱が起こった平治元年(1159年)のことで、まだ、この戦が始まる前のことである。牛若丸を身ごもった常盤御前の保護のために、上野新兵衛に土地を与え、常盤御前は新兵衛の屋敷で牛若丸を産んだとも伝わる。

常盤御前は、近くの常徳寺に牛若丸の安産を祈願して、常盤地蔵を安置したと伝えられている。 その後、義朝は平治の乱に敗れて謀殺され、常盤御前は3人の子と大和に匿われるが自首し、子の命と引き換えに平清盛の妾となり、後、義朝の家臣であった藤原長成に嫁ぐ。

牛若丸産湯井

常徳寺から北山通を隔てた西南の方角、上野新三郎氏の畑の中に牛若丸誕生井と刻んだ高さ1.5メートルの石碑が立っている。その背後には、常盤が牛若丸を産むときに汲んだといわれる小さな井戸があり、井水は今でも涸れていない。そこには、「牛若丸誕生井、応永二年(1395年)調之」と刻まれた小石塔があり、室町時代初めからここが、牛若丸誕生地といわれていたことが知られる。農地の所有者の上野氏は、代々源家に仕え、源義朝の命で、常盤御前の出産を助け、この井戸を守ってきたと伝えている。

江戸時代の観光案内書であった「都名所図会」(1780年)には、「常盤の古跡、義経誕生水」と紹介されている。

この地には、江戸時代末期まで、「牛若丸産湯大弁財天女社」が祀られていたという。明治期以降に農地になった。

誕生井のある畑の松の木の根元には、「胞衣塚(えなづか)」も残されてる。小さな碑に「牛若丸胞衣塚」と刻まれ、ここに牛若丸の胞衣(胎盤)と臍(へそ)の緒を祀ったとされる。

上野新三郎氏による由緒

「牛若丸は、この地で平治元年(1159年)に生誕しました。産湯井、胞衣塚と彫られた碑には応永二年(1135年 室町末期)と年号が銘記され、京都で一番古い石碑と思います。今は畑の中ですが、明治の頃まで牛若丸産湯大弁財天女社の小宮で、開運のご利益と崇められていました。この地は山城国(城州)愛宕郡大宮郷洛北紫竹上野村で郡名は鷹峯に愛宕さんの鎮座と山が近いので、滝や谷水のせせらぎの音の二説ありますが、定かではありません。大宮郷は十カ村に別れ、江戸時代正保年間(370年前)380戸1600人で郷の中心は紫竹村でまさに日本の原風景の寒村でした。今その区域の人口は約3.5万人。

さらにこの地は洛北七野と呼ばれ、北から萩野(萩の自生)、紫竹上野(紫竹の竹の自生)、紫野(若草の自生)の順、三つの野は禁野(しめの)として天皇や朝廷の狩猟、若菜摘みの場であったことから、千年の昔より近年まで多くの山荘が営まれました。

左の道は洛中から若狭まで二十里の道のりの上野街道(丹波道、氷室道)で周山街道開通まで杉坂、真弓、山国、知井を経て、若狭と呼ばれた往来の多い洛北の主要道でした。若狭から鯖が、京の都から物資や文化の交流の多い歴史街道です。旧暦六月十五日には、御所へ納める氷室の氷が馬の背により運ばれたことはよく知られています。上野の里は大災や疫病鎮めの京の三大奇祭の一つ、やすらいまつり(今宮神社)を平安時代から今日まで伝承されています(四月第二日曜日)。付近の光念寺には常盤御前が安産を祈願したとされる常盤腹帯地蔵も祀られています。 平成二十六年十一月 上野新三郎」