北大路堀川一筋下る東入る

むらさき湯オリジナルのカラフルな銭湯暖簾をくぐると

ワクワク、ワイワイ、アットホームな銭湯空間

父親がむらさき湯を引き継ぐまで

むらさき湯の創業は昭和6年だが真弓さんの父親が引き継いだのは昭和44年。真弓さんが小学6年のとき。故郷石川県金沢を離れ京都に引っ越しをしてきた。

実は京都には同郷出身の親戚が銭湯を経営していた。そのもとで見習いとして経験を積み、その後いくつかの銭湯候補の中から現在のむらさき湯を譲り受けた。当時は銭湯を一から起業しなくても銭湯を譲り受けるケースが多くあった。それだけ銭湯は各地にあった。

昭和6年当時

むらさき湯が創業した昭和6年という年は、京都市が大合併をした年で、北大路通、西大路通、九条通を挟んで約400メートルの範囲の戦前区画整理事業が行われ、名実ともに京都の市街地が拡大していた時期である。

その区画整理された土地に多くの住宅が建設され、人口が爆発的に増えていった。特に工場労働者用の内風呂の無い借家建設が進み、銭湯を始め、市場、各種商店の需要も高まり、次々と開業が進んでいった時期でもある。当時の銭湯を地図上に落とすと計画に沿って銭湯の所在は市街地の中心部から郊外に移転して至ったのがよくわかる。

過密な市街地の衛生管理やコミュニティ形成の面から、銭湯は都市整備に必須な都市インフラであったと言える。

真弓さんの父親が開業した昭和40年代でも、この界隈には西陣織の職人さんが多く住み、銭湯のニーズは高いものがあった。

引き継ぐまで

真弓さんはサラリーマンの子から銭湯の子になることがすごく嫌だった。長時間労働で夜も遅く休みも少ない。サラリーマンの生活のほうがよほど楽だと思った。そんな銭湯を継ぐつもりもなく、京都の広告代理店に勤めていたとき夫の正樹さんと出会った。

真弓さんは振り返る。

親は大きな借金を抱えながら私と妹と2人の子供を育てるため懸命に働いてきた。途中設備や浴室の大改修など当時一大イベントだったと思うが、苦労して苦労してむらさき湯を発展させてきた。そんな両親がさあこれから少しは楽ができるという頃にはもう80歳の手前。真弓さんが後を継ぐとは両親も思っていなかったが、後、父親が亡くなった時、むらさき湯を一代でつぶしてしまったら両親の人生は何だったのかと思うようになった。当面母親が生きている間は継承しないといけないと思い努力をしていたが間もなく母親も亡くなった。

これからどうするか。そのタイミングで、正樹さんも会社を定年退職しており夫婦で一緒に継承していくことにした。真弓さん曰く、まるで綱渡りによう全てのタイミングがかみ合ったと。

むらさき湯のお風呂・特徴など

今から30年前に「浴室」の大改修をした。

※脱衣場は昭和6年当時のまま。現在も当時の格天井に天井扇の名残が残っている。

浴室は薬湯の露天風呂、高温のサウナ、電気風呂、ジェット風呂、泡風呂、水風呂等がコンパクトにまとまっている。改修当時、サウナは現在ほど一般的でなかったが、先代に先見の明があったのか比較的大きいサウナ室をつくった。現在も好評だ。

浴槽の水は地下100メートルの清廉な天然地下水を使っている。水温が四季を問わず15度前後で一定しており、水質も良く、この地域には珍しく軟水である。お客様の中にはその水を持ち帰り炊飯や飲用に利用する方もいるようだ。但し持ち帰りは店としては推奨していない。

またこの店のユニークなところは、様々なイベントを開催していることだ。例えば、

〇ベストセラーとなった絵本「パンダ銭湯」の世界を再現した「パンダ湯」を、毎年夏休みの約1ケ月間開催している。「パンダ湯」と大書された暖簾を潜ると玄関にはパンダ親子の置物が出迎え、一緒に記念撮影も出来る。また浴室に絵本の各ページのコピーが貼られ入浴しながら絵本を読むことが出来る。薬湯は笹の薫りの「パンダ湯」。また脱衣場には絵本に登場するアイテム「パンダワックス」や「竹林牛乳」を探すミニゲームなど楽しい仕掛けが用意されている。勿論、期間中は親子づれが多い。

〇「ちゃいちゃい亭」というプロの落語家を招いて寄席を開催している。

コロナでしばらく休んでいたが、令和6年1月に第4回が再開。当日は大勢のお客様で盛況であった。さらに2月にはタンバリンやハンドパンなどの打楽器の演奏会を開催。また浴室では漫画家ラッキー植松さんの「なにわ銭湯 いろはカルタ」の展示会が1か月間開催されるなどなど、楽しいイベントが目白押しだ。

林さん御夫妻は銭湯をする前は企画会社にいた。こうした楽しい企画にはその経験が生かされているのかもしれない。

忘れられない原点

正樹さんは、銭湯については新参者だったが、亡くなった義父がある酒の席で「俺は掃除をして、子供を大きくしてきた」と述懐していたのを思いだす。「掃除」は銭湯にとって特別の意味があるとハッとした。深夜遅くまでデッキたわしで念入りに掃除をする義父の姿。銭湯経営の精神を学ぶ思いだった。

またある高齢の常連客の話。しばらく姿が見えなくなった。後日その娘さんが来店した。娘さん曰く、亡くなった父は病院に無断で銭湯に行っていた。それが「むらさき湯」だったと。常連客の脱衣場での生前の元気な姿をお伝えすると、涙ながらに「有難うございました」と深々と頭を下げられた。

銭湯は利用される一人ひとりにとってかけがえのない生活の、人生の一部であることを知った。

銭湯を取り巻く環境

京都府下では銭湯は昭和50年で約530店あった。その後内風呂が一般的になった影響で減少し続け令和4年現在100店を切っている。それでも人口比では京都は全国で最も多い。とりわけ「むらさきエリア」に多い。

その理由を正樹さんに尋ねると「それぞれの店が個性的であること、また深夜遅くまで営業するなど営業努力が大きいのではないか。深夜になれば学生や仕事帰りのお客様も多くそのニーズをしっかりつかんでおり、この地域の魅力になっている」とのこと。

しかし銭湯経営の内情は厳しい。

作業的には深夜までの営業に加え清掃やメンテなど睡眠時間を削っての作業が連日続く。真弓さん曰く「根性がないとできない」という。

また財政的にも厳しい環境だ。

銭湯の入浴料金は戦前からの「物価統制令」の唯一つの対象で、現在京都府では大人は490円。喫茶店の珈琲代よりも安い。

行政は公衆衛生の観点で銭湯を確保することが法律に謳われており、機械を修繕したり設備を導入したりするための補助金を出している。

しかし昨今の燃料代、電気ガス代等の高騰が経営を圧迫しており、このまま不安定な状況が続けば体力のないところは廃業も視野に入らざるを得ない。

追い風もある。サウナブームだ。サウナにもいろいろあって銭湯のは「銭湯サウナ」と呼ばれている。京都はサウナ利用料は殆どの銭湯で無料になっている。これは他府県から来た学生などに言わせると大きな魅力だと言う。

銭湯は未来に残るのか・残すのか

こうした町中にある銭湯をどう未来に引き継ぐか。

日本には3つの独自の文化がある。「相撲」「寿司」そして「銭湯」だ。銭湯がそんな独自の文化であることは残念ながらあまり知られていない。ましてや「必須の」社会的インフラという認識まではない。震災による入浴難民・銭湯難民が発生して始めて自覚されるようなそんな「潜在的な」インフラともいえる。

実はこうした薄い認識のもとで、銭湯自体が経営者の高齢化と市場原理に晒され、静かに姿を消していっているというのが現状である。

銭湯が未来に残るにはどうしたらいいか。

試行錯誤が続いている中で、

むらさき湯はその取り組みを通して

「一つの問題提議となる存在になりたい」と思っている。