堀川通北大路下る西側にムラサキシキブに囲まれた石碑がある
「紫式部墓所」の刻まれた石碑で
小野篁(おののたかむら)の墓と並んで建てられている
紫式部
世界的な評価を得ている「源氏物語」の作者として知られている紫式部である。天延元年(973)に生まれ、長元四年(1031)の没とされている。
「源氏物語」だけでなく、藤原道長の要請で宮中に上がった際に宮中の様子を書いた「紫式部日記」も残している。
歌人としてもすぐれ、「小倉百人一首」に収められており、「捨遺和歌集」以下の勅撰和歌集に計51首が入集している。
父の藤原為時は正五位下と下級貴族であるが、花山天皇に漢学を教えた漢詩人、歌人である。紫式部は藤原宣孝に嫁ぐが一女をもうけるも、結婚後三年ほどで、長保三年(1001)に夫が死亡する。その後「源氏物語」を書き始め、その評判を聞いた藤原道長に召し出されて、道長の娘で、一条天皇中宮の彰子に仕えている間に「源氏物語」を書き上げる。中宮・彰子には寛弘二年か三年(1007)頃から寛弘八年(1012)頃まで仕えていたようである。
これに先立ち、道長と源倫子の結婚の際に、倫子付きの女房として出仕したとの説もある。
本名は不明であるが、紫式部という名前は源氏物語の「紫の上」に由来すると考えられている。
紫式部墓所
紫式部は、平安時代のこの地域の大寺である雲林院に生まれ、晩年を過ごしたと伝わる。そして、「紫式部墓所」には紫式部と小野篁の墓が並んで建っている。室町時代の源氏物語注釈書「河海抄」には、式部の墓は雲林院白毫院南の小野篁墓の西との記載があり、古くからの言い伝えであることが分かる。雲林院は、その後衰亡し、後醍醐天皇の命により、その敷地を大徳寺に割譲し、応仁の乱で焼失した。現在の雲林院は、宝永四年(1707)に寺名を踏襲して、大徳寺の境外塔頭として旧大宮通りに面して建てられた。
小野篁は、あの世とこの世を行き来したと伝わる人物で平安初期の人。紫式部は平安中期の人で、両者には約200年の隔たりがある。不思議な組み合わせだが、これについては、紫式部が創作の物語である源氏物語を書いたことが関係しているという説がある。源氏物語は、貴族社会の恋愛を中心とした創作の物語だ。創作の物語だから、「うそつき」ということになる。また、人々の愛欲を書いた紫式部は、ふしだらな絵空事で多くの人々を惑わせたとして、死後は地獄行きになったといわれている。平安時代の歴史書にも記述があるので、当時から「紫式部は地獄に落ちた」と信じられていた。
源氏物語を愛読していた人々は、小野篁の墓を紫式部の墓の隣に移動させ、彼女を救ってほしいと祈りをささげるようになる。この祈りが通じて、小野薫が閻魔大王と紫式部の間に立って、閻魔大王を説得し、紫式部を地獄から解放されたと信じている。
そして、現在の墓は、1989年に社団法人紫式部顕彰会によって整備された。
この地に立つと、当時、宮中で繰り広げられた男女の愛憎の物語や、疫病が流行り、死後の世界が身近に感じられていた世相に思いをめぐらすことができる。
秋になると、墓碑を取り囲むムラサキシキブに紫色のつややかな実がなり、いっそうの風情を感じさせる。