玄武神社の宮司は、その社号のいかめしさと対照的に、たおやかな女性である。

境内も、こぢんまりと、本殿の他に2社を祀る。

王城の守護四神の一つで北面の鎮護を担う神社として、風格を感じる

由緒

玄武神社の御祭神は、第五十五代文徳天皇の第一皇子、惟喬(これたか)親王である。ご生母は更衣で従四位上、紀静子であり、第一皇子で聡明でもあったことから皇太子候補と見なされていた。ところが、嘉祥三年(850年)に当時、権勢を誇っていた藤原良房の娘で文徳天皇の女御である藤原明子が第四親王の惟仁(これひと)親王が誕生すると、天皇は良房をはばかられて、惟仁親王を皇太子とされた。

惟喬親王は、才能に恵まれながら、中央政治にかかわることなく、山崎の水無瀬に閉居して詩歌吟詠などの文化、風流の世界で過ごされた。現在でも轆轤の始祖として崇敬されている。

第五十七代陽成天皇の元慶年間(877~884年)に親王の母方の末裔で雲林院界隈に居住していた星野市正紀茂光が、悲運な親王の御霊をおなぐさめし、また、王城北面の鎮護とこの地の守護神として、親王の祖父、紀名虎が蔵していた御剣を親王が御寵愛されていたのでこれを御霊代として奉祀したと伝えられている。その御霊代は神職ですら仰ぎ見ることはできないとのことである。

そして、その子孫が代々この地の郷士であり且つ神職として明治中期まで奉仕されたとされている。

現在の宮司は、その子孫ではなく、父上の代を継がれたとのことである。

境内地には本殿の他に、玄武稲荷大明神と三輪明神の二つの末社がある。稲荷大明神は五穀豊穣商売繁盛を、三輪明神は病気平癒延命長寿を願い、それそれ2月と4月にお祭りを斎行します。全てをお参りすると、厄除け、商売繁盛、延命長寿の御利益を得られるとのことである。

社号 玄武

桓武天皇が四神相応の地として平安京をこの地に定めたことは有名な話である。「陰陽道」の原理より東に青龍が宿る川(鴨川)、南に朱雀の神が宿る池(巨椋池)、西に白虎の神が宿る道(山陰道)、北に玄武の宿る山(舟岡山)があり、山を背に南に池を、太陽を浴びて東から清流を、その清水を利用して、西の道から届けられる豊かな食物で暮らす」とある。

その一つが都の北面の鎮護神の「玄武」であり、社名はそれに因む。その図柄は亀に蛇が絡むものであり、本殿手前に石像が配置されている。

そして、拝殿の左手奥に陶製の四神の図柄が掲げられているが、鍋島藩から賜られたものを寄贈されたものである。

他の三神について、椙本宮司は次のように比定している。まず、東の青龍は、下鴨神社境内地にある河合神社「鴨川合坐社宅神社(かものかわあいにましますおこそやけのかみやしろ)」である。

次に西の白虎は、下鴨神社の糺の森からに都を越えて西に向かうと「元糺(もとただす)」と呼ばれる地名が残る神社がある。そこには元糺と呼ばれる池の中に特徴的な三柱鳥居が立っている。「木嶋坐天照魂神社(このしまにますあまてるみたま)」といい、別名「蚕の社」と呼ばれている。これが西の白虎神である。

最後に南の朱雀神である。竹田街道を下り、国道1号線の途中に「田中神社」があり、その境内地にある「北向虫八幡宮(きたむきむしはちまんぐう)」がそれにあたります。このお宮は、平安京の大内裏の真南にあり平安京の真ん中を南北に貫く朱雀大路の延長線上にあり、お社は当時の大内裏の方向である北を向いている。これで、四神がそろったことになる。

なお、玄武神社の氏子区域は、紫野学区と柏野学区の全域、鳳徳学区三十一町内で計百四町内となっている。

玄武やすらい祭

玄武やすらい祭は、京都を代表する地域に根差した民俗行事として、鞍馬の火祭、太秦の牛祭と共に、京都の三大奇祭の一つとされている。

毎年、4月第2日曜日午前8時30分 拝殿にて祭りの無事斎行を願ってお祓いを行うことから始まる。その後、拝殿を出て三輪明神の前で踊りを披露した後、氏子域を一日練り歩く。

その昔、人々は、春の花が飛び散るときに疫神や悪霊も同時に飛び散って人々を悩ませると考え、この疫神を鎮めるために行われた鎮花祭として、やすらい花が催行された。無病息災を願う行列の花傘に入ることによって、悪霊を取り去り、疫病にかからないと伝わる。

やすらい祭の始まりは、平安時代中期に京都で発生した大洪水の後に疫病が流行したことから、大和の国(奈良県)の三輪大社の鎮花斎のならわしにより玄武神社で行うよう天皇の命令があったといわれている。その後も疫病の流行により再度勅令があり、それ以降玄武神社で永代勤めることとなる。

現在、大ぶりの傘に周囲に緋色の布を垂らし、傘の頭部に桜や椿などの花を生けた花籠をのせた「花傘」と呼ばれる風流傘を中心に、白襦袢、白袴の上に緋色の衣をはおり、頭にシャグマを冠った4人の鬼と呼ばれる踊り手、緋色の衣に裃をはきシャグマの上に烏帽子をかぶり胸に鞨鼓(かっこ)をつけた2人のカンコに加えて音頭取り、笛等で構成された行列が玄武神社の境内に始まり、氏子域の定まった場所で、歌を囃子詞、笛を伴奏に4人の踊り手がシャグマを振り乱し、鉦・太鼓を打って激しく踊ります。

昭和62年1月には国の「重要無形民俗文化財」の指定を受け、令和4年11月にユネスコ無形文化遺産に登録された。