大徳寺門前に店を構える
文明年間(1469~87)より大本山大徳寺に出入りする
一休禅師より屋号を賜り、五百数十年にわたり同寺塔頭の料理方を務める
名前の由来
15世紀の後半に、大徳寺の真珠庵様の開祖一休禅師が田辺の酬恩庵と行き来されている頃に、大徳寺様に出入りしていた先祖が懇意にしていただき一休禅師様よりお名前をいただいた。高僧の名前を呼び捨てで使うのは恐れ多いということで、同じ字は使わず一久としていたくこととしました。
その頃は大徳寺の門前に居るので寺の典座のお手伝いをしながら、大徳寺様の御縁の諸大名、文化人の方々に出す贅沢な精進料理の提供をしていた。地方の名産を持参されて、これを料理に使ってくれということもあったと聞いている。料理は大徳寺の庫裏を借りるか、ある程度こちらで作って、大徳寺25ケ寺へ出張という形で料理を提供させてもらっていた。
けれども、戦後、昭和39年、40年くらいからお寺の拝観が始まり、拝見している横で料理を食べているのはよろしくないということや、夜に料理を提供して欲しいというお客さんの要望にお応えするため、当時、建築していたお茶室で料理を提供するようになった。
大徳寺納豆
大徳寺納豆は、一休禅師に教わったままのやり方で提供している。一休さんのお寺でった真珠庵様も同じように作っておられる。
昭和の初めの頃、大徳寺の住職様から、「大徳寺の伝承料理と粒納豆を継承する為には登録商標がいるから、一久とっておけ」ということで、本山の許可の元、大徳寺納豆と合わせて大徳寺精進料理について登録商標をいただいている。本山の名前で登録商標をいただいているのは全国でも大徳寺一久だけだそうである。
大徳寺納豆は、今でこそ、ご飯のお供やお茶うけ、酒の肴、調味料など様々な用途に使うが、昔は漢方薬的な要素の備わった保存食であった。
年に一度、真夏にしか作れない。土用に真夏の炎天下で仕込むことで自然発酵して日持ちのする食品となる。今でも、年に一度、家族が全員参加で一年分を木桶に仕込んでいる。
材料は昔と変わらず、大豆と大麦と塩であり、国産のものを仕入れている。
真夏の太陽が相手の自然発酵であり、年によっては乾燥の具合が多少違うこともある。大徳寺様から登録商標をいただいている限りは、この家が作れなくなると昔ながらの大徳寺納豆を世間の皆様に食べていただけなるという気概で作らせていただいている。
一子相伝の精進料理
大徳寺一久は、一子相伝なので、料理は家族だけでやってきている。たとえ100名のご予約でも家の者だけで調理している。せっかくの登録商標であり、朱膳朱椀型料理の食材、調味料、調理方法迄、門外不出で守られている。
建物の歴史
この建物は、昭和59年に増改築している。それまでは、明治期の虫籠窓のある厨子二階の小さい建物を大徳寺納豆の売店、また大徳寺精進料理の食事の部屋としていた。ご主人が徐々に建物を広げていかれた。お店の北側にある建物は昭和52年から53年にかけて新築された。
その間にある八畳のお茶室は、祖父が昭和30年に建ててくれて、料理を提供する場としても利用していた。これは大徳寺の玉林院の茶室の写しである。さらに、平成5年から6年にかけて、100名収容できる大広間のある建物を建てた。
店の看板であるが、数十年間に大徳寺の三玄院の先々代の住職であった藤井誡堂(ふじいかいどう)和尚さんの揮毫である。店内には二百数十年前の宙宝和尚による「本来無一物」(ほんらいむいちもつ)の額もある。人間は裸一貫で生まれ、裸一貫で死んでいくので、存在する物は、本来すべて空(くう)であるから、只、毎日、黙々と店が継承し、大徳寺様、三千家・藪内家、各家元様の要望に応えられる様、日々、精進しているとのこと。
500年継いできた秘訣
大徳寺様のお手伝いから始まって、大徳寺様のご縁をいただいて500年を繋いできたとのこと。加えて、何かあれば親族の手助けを得て乗り越えてきた。家族でボチボチやることが続く秘訣とのこと。
大徳寺様の御用の時は和尚様方にお手伝いをいただき、三千家をはじめ藪内宗家の御用を勤める時は、それぞれ先代の法要などの大きな仕事なので、親戚縁者に手伝ってもらっている。家で盛り付けてお寺に持って行ったりしている。そういう時は、料理を出すのも一時なので、家元の方々に手伝っていただける。
従業員はいないので、夫妻と娘夫婦、孫の家族6人で切り盛りしている。娘さんには小さい頃から、この家を継ぐことを言って聞かせてきた。孫も、この家を継ぐべく、大徳寺納豆の仕込みの手伝いをしている。こうして歴史が積みあがっていく。
今でも年中無休で仕事をし、家族で遊びに出かけることは無く、誰かが店にいるようにしている。
女将のもの柔らかい物言いの中に、500数十年を繋いできた誇りと、これから将来に繫いでいく気骨を感じた。