紫竹の住宅街の中に突然、大きな石像と共に迎えてくれる高麗美術館。
京都に高麗美術館?
お話を伺う中で、国際文化交流都市、多様な文化を昇華してきた
京都だからこその高麗美術館だと強く印象を受けた。
高麗美術館の由来
今年35周年を迎える高麗美術館は、喜斗氏の父である鄭詔文氏がこの地にあった自宅を取り壊した跡地に美術館を建設し、コレクションした朝鮮の美術品と共に公益財団法人に寄贈して1988年10月25日に開館した。
詔文氏は、少年時代に両親と共に来日し、戦後は京都で実業家として成功する。そして、朝鮮半島でつくられた白磁に魅せられて以来、日本国内にある高麗・李氏朝鮮時代の陶磁器や工芸品などを中心にコレクションが始まった。その数、1700点に上る。
公益財団法人は、理事に詔文氏の妻と喜斗氏が就任する共に、10名余りの京都大学、同志社大学、立命館大学などの考古学、人文科学の先生方を理事、評議員に迎えるなど全部で20名余りの役員で運営してきた。初代館長には林屋辰三郎氏を迎え、二代に上田正昭氏、そして2016年から三代 井上満郎氏が就任している。
公益財団法人の設立の前には、1969年から「日本のなかの朝鮮文化」という30ページ程度の冊子の出版を始め、季刊誌として12年間継続した。そこに司馬遼太郎氏、松本清張氏、岡本太郎氏を始め、東大の井上光貞氏、黒岩重吾氏など、多様な先生方が執筆に加わる。詔文氏の発想で在日だけで冊子を作るのではなく、日本の学者や文化人が中心となって朝鮮文化を語ることによって、多くの日本人が自らの歴史観を見直す契機とすることを目指した。
並行して、精力的にコレクションも進めていった。日本国内に散在していた美術品をその所有者からきちんとした商取引で購入してきたことにも、詔文氏のこだわりを感じる。その代表的なものが、美術館の門の脇に立っている石人(せきじん)である。
この石人は、もともと韓国の墓石で本来は飾るものではないし、売り物でもない。日本の植民地時代に日本人がこれを美術品として購入することを目指したが、先祖の墓を売るものは誰もいなかった。そこで、当時、田舎の人がソウルに出稼ぎに行っている間に、無断で日本に持ち帰ったものである。しかし、多くの犠牲を出した三・一独立運動を契機として、植民地政策が武断政治から文化政治に代わってからは、大型文化財の持ち出しは全面的に禁止となった。この石人も含めて、詔文氏は、日本国内の所有者からきちんとした商取引で購入していった。
そして、この冊子が50号を迎えたときに「そろそろ美術館をつくってください」という声が大きくなり、司馬遼太郎氏の後押しもあって、美術館が開館した。
しかし、詔文氏は美術館建設中に病に倒れ、美術館開館の翌年、1989年2月23日に美術館の開館を見届けるようにして永眠する。奇しくも、その翌日には、昭和天皇の大喪の礼が執り行われ、高麗美術館は、激動の昭和が終わり新しい平成の時代が始まる象徴のような存在となり、新しい日韓関係の構築ができるのではないかと期待された。
高麗美術館の名前の由来
高麗美術館が開館した1988年にソウルオリンピックが開催された。さらに、その前年の1987年には、学生の民主化運動を受けて、ノ・テウ氏が民主化宣言を行った後、その年の大統領選でノ・テウ氏が大統領となるなど、韓国の民主化の象徴のような年であった、
詔文氏は、こうした民主化の動きを受けて、いずれ朝鮮半島の統一も近いのではないかと期待をしていた。朝鮮美術館とすると韓国籍の人が入りにくくなる。逆に韓国美術館とすると朝鮮籍の人が入りにくくなり、南北融和の動きに水を差しかねない。さらに南北統一の際には、高麗連邦共和国になるだろうと考えた。高麗王朝は、現在の韓国の人たちが一番初めに朝鮮半島を統一したと考えている王朝である。そこで、いつか朝鮮半島を統一して欲しい、されるだろうという思いから高麗美術館と名付けた。
高麗というのはコリアの原型である。いまでも英語表記ではノース・コリア、サウス・コリアと呼ばれる。コリアの語源はコリョ(高麗)である。
豊かな文化を誇った祖国の統一と、その偉大な祖国と長年にわたって交流を行ってきた日韓関係の改善、そのような思いの込められた命名であった。
京都に立地した高麗美術館
35年前、大阪の枚方市長に高麗美術館の建設に強い関心を持っていただいていた。当時、大阪に住んでいた寿岳章子先生が枚方市長を説得して、枚方市が美術館を建設するから、詔文氏のコレクションを置いてくださいとまで言ってもらった。その場所が王仁公園(わにこうえん)で、4世紀ごろ、当時の天皇の要請を受けた百済王の命により、日本に儒教と漢字を伝えた王仁博士の墓とされる伝王仁塚のある場所で、朝鮮とのゆかりが深い場所であった。
確かに王仁博士ゆかりの地にあると韓国の人は喜ぶかもしれないが、高麗美術館は、日本の文化の精神的な支柱である京都にあるべきで、世界への発信もできる。また、京都は在日の人の比率も高く、人権都市宣言をした人権問題の先進都市でもある。文化と人権の問題を同時に深めていく高麗美術館の立地としては京都以外には考えられなかった。
そのため、夏休みには京都の小学校の先生たちが研修に訪れる。多様性の時代にあって、かつてほどあからさまな人権問題はないがゆえに、歴史・文化の奥深いところでの人権問題の理解が求められている。
ユネスコの「世界の記憶」の登録された「朝鮮通信使に関する記録」であるが、高麗美術館にはユネスコ「世界の記憶」が3点所蔵していて、また関連の資料や美術品が収蔵され、調査・研究と特別展の開催などを行ってきた。この記録でも、政治は江戸で行われるが、道中、生活の中での人と人の交流があり、本来の文化交流が行われていた。この200年を超える友好関係が結ばれ、戦争がないという状態であったのは、世界でも日本と朝鮮との間だけだということを子どもたちに教えてほしいと伝えている。美術品を見せるだけでなく文化交流のあり様を見せていくという美術館の役割を発揮するという意味でも京都の立地している意味があると考える。
こうした美術館は日本にここにしかない。そして、京都には、こうした朝鮮・韓国の生活や文化を伝承する場所がたくさんある。宇治のウトロ平和祈念館であり、同志社大学には戦前の詩人の尹東柱(ユン・トンジュ)の詩碑がある。
逆に、韓国の経済・文化の首都であるソウルに日本の文化を伝える美術館が無い。ソウルに限らず、慶州でもよいので、日本の文化を伝える美術館が欲しい。そのことにより、日本人も喜ぶし、韓国の人たちが日本の文化を勉強する入り口にもなる。そういうところがあれば、高麗美術館と交流もできる。
高麗美術館の目指すところ
全ての来館者が、陳列している美術工芸品を通して朝鮮の歴史と文化を正しく理解して欲しい。特に「同胞の若い人々」が祖国の風土と民族の生気を感得して欲しいと鄭詔文氏は願った。高麗美術館は、単なる古美術鑑賞の場ではなく、陳列品の背後にある民族の伝統と文化、さらに生活の息吹を知る場所にしたいという願望であった。
例えば、大宝律令ができる前に朝鮮半島などから渡ってきた人は「帰化人」ではなく「渡来人」と呼ぶべきであり、日本の文化の担い手ともなった。京都においても平安京以前に秦氏が嵐山を開拓したことなどを一つ一つ、掘り起こしていく。文禄・慶長の役の時に陶工たちが連れてこられたことは悲しい歴史ではあるが、こうした人々の技術が底辺にあって、伊万里焼等ができるなど、日本の文化と大陸と繋がっていること。江戸時代に発達した金属活字の技術も朝鮮半島からもたらされたものであるということ。こうした様々な事柄を歴史学者が検証することによって日韓友好の礎ができていく。
韓国も歴史観を克服していかなければならない。冊子「日本のなかの朝鮮文化」の中での日韓双方の学術的な検証の上に日韓の友好が成り立っていくということが詔文氏の提唱したことであった。それが、司馬遼太郎の「街道をゆく」につながっていった。「街道をゆく」の執筆にあたって司馬氏は、詔文氏と共に旅をしており、本の中にも詔文氏が数回登場している、この旅を通じて、日本と大陸とは古代から面々と繋がっているということを解明していった。
日本と韓国の間の問題は、歴史のもつれである。日本の人も韓国を文化的に理解できないと同時に、韓国の人も日本を理解できない。韓国の人たちも、近現代の日韓関係だけでなく、江戸、室町、鎌倉、平安と遡り、藤原家を始め、近衛家、九条家等の家の文脈と深くかかわり、今日までつながってきているということ。金閣寺が奇麗だというだけでなく、清水寺を創った坂之上田村麻呂の坂之上家は渡来人であり日本の文化に韓国の文化が大きくかかわっているということを理解しなければならない。
同様に、日本の人も韓国の本当の歴史の姿を分かってもらう必要がある、白磁や青磁をコレクションするだけでなく、それらが中国から韓国を経由して渡来人によって日本に伝わり、伊万里焼や唐津焼のルーツになっているということを理解することによって本当の文化交流、相互理解が進むと思う。
そのために高麗美術館が存在している。高麗美術館が韓国にあると日本の人たちが朝鮮文化や韓国文化を理解する場所が無くなる。
高麗美術館の運営と役割
高麗美術館は年に3~4か月休館して、収蔵品の修理・修復をしている。壊れた壺の復元、螺鈿の漆の補修などである。
奥には図書室があり、朝鮮、韓国の考古学や美術の専門書、ハングル資料など、ほかの美術館には無いものを収蔵している。日本で韓国の文化財を勉強している人も、大学に資料が無いときにはこの美術館に来て勉強している。先週もイギリスに留学している韓国の女性が、この美術館が収蔵している韓国の佛教資料を調査に来た。イギリスの大学にはアジアの佛教資料はたくさんあるが、朝鮮の佛教については分からない資料が沢山あったので、それを解き明かすために高麗美術館にある2点の仏画の調査に来たとのことであった。
韓国と日本の螺鈿の類似点や琉球漆器と朝鮮漆器の類似点、朝鮮螺鈿に使われる貝殻は琉球で取られたものらしいこと。これは、江戸期以前には、琉球王国が独立した存在であり、朝鮮と直接、文物の交流をしていた証でもある。
小さな個人運営の美術館であり、韓国の留学生に手伝っていただいている他、近隣の文化を愛する人たちに運営を手伝っていただいており、これらの人たちと高麗美術館をコミュニティのように運営していきたいと思っている。
35年が経過して、建物の耐震改修もしなければならないし、雨漏れや内装の劣化への対応をしなければならない。
本来、韓国政府がやるべき仕事と思うが、まずは私たちができるところまでやっていくことが大事であると思っている。
全てがボランティアである。ハングルができることが必要である場合も多いので、韓国から嫁いでこられた女性や韓国からの留学生の方々に手伝っていただいている他、近隣の文化を愛する人たちに運営を担っていただいており、これらの人たちと高麗美術館のコミュニティのように運営していきたいと思っている。