かつての銭湯を彷彿とさせる唐破風と和製マジョルカタイル貼りの外観
常連さんにも観光客にも愛されるカフェ
【 不易流行のさらさ 】

大塚章寿
有限会社サラサ 役員
(創業メンバー)
尾崎友哉
有限会社サラサ 社長

さらさの1号店は、1984年に富小路三条の古い町家を、モノ作りの好きなクリエイティブな若者たちが内装工事をやり、什器を持ち寄って誕生する。資金力のない若者達は、照明もテーブルも椅子も棚も作れそうなものは全部自分たちで作った。町家活用店舗の草創期のお店でもあり、この感性がさらさ西陣にも引き継がれている。

「さらさ」の名の由来は、インドからバリ島を始め世界各地へ広まり、柔軟に変化を遂げてきた染織生地「更紗=さらさ」から来ている。インドで生まれた更紗は、バリ島等に伝わるだけでなく、シルクロードを伝って日本にも伝わり、さらにアメリカに渡ってペイズリー柄を生んだ。そして、その土地や国の風土や文化に合わせて多様に変化してその土地に固有の染色織物として定着してきた。このように、一つのモノが流れるものと定着していくものに変化していくというところに惹かれて店の名前としたとのこと。

松尾芭蕉が奥の細道で提唱した「不易流行」という言葉がある。具体的には「変わらないものを理解しないで基礎は成立しないが、変わるものを理解しないときには進展がない」と記載されている。「さらさ」という言葉の中には「不易流行」のエッセンスも入っており、良い名前だと思っておられる。

さらさ西陣との出会い

さらさ西陣は、築80年の銭湯旧藤の森温泉をリノベーションして、2000年にさらさ2号店としてオープンした。当時は、妙蓮寺の佐野住職を中心に「西陣を住んでも来ても楽しいまち」にすることを目指して町家を住居兼アトリエとしてマッチングを行う「町家倶楽部」の活動が活発になっていた時期でもあり、200件近い町家が再生されたが、この店は「町家倶楽部」のマッチングではない。

あるとき、オーナーがたまたまこの銭湯の前を通りかかったときに、何事かイベントをやっていた。なんだろうと思って入ってみると番台に人がいたので「何をしているのか」と聞いてみると「この銭湯は廃業していて、ここを借りて私たちの劇団の芝居をやっている」とのことであった。それで、中に入ってみると見事な和製マジョルカタイルが目に入ってきた。「これはすごい、なんとサイケデリックなタイルだ」と一目ぼれをする。

そして、劇団の人に持ち主を教えてもらって、後日、「富小路でカフェをしているのだが貸してもらえないか」と直談判をして、貸してもらえることになった。その後、内部改装をして2000年にオープンした際には、店の前で風呂桶をもって「ここは何屋さんになったのか」とぽかんとしている人もいたとのこと。

外観の唐破風も見事で、内装は、特徴のある和製マジョルカタイルは極力残し、格天井もそのまま使っている。番台は撤去し、男女の仕切り壁も一部を残して、手前の脱衣場であった部分は、一部はカウンター付きの厨房とし、残りはゆったりとしたカフェスペースとなっている。奥の浴室は美しいタイルに囲まれたカフェとなっており、銭湯であったときの天窓付きの吹き抜けの天井から漏れる光が優しい。

内装工事は、富小路の店と同様に、センスのある仲間たちが集まって施工した。白い漆喰壁も素人の左官作業で、味のある仕上がりとなっている。きれいに仕上げるよりも、ある程度、未完成な部分がある方が落ち着ける空間となるとのこと。

地域の常連さんと観光のお客様

開業当初は、複合施設であった。1階の西半分は洋服屋さん、2階に古着屋さんと雑貨屋さんが入っていた。さらさ西陣は、1階の東半分で経営していた。けれども、数年後には、全て撤退して、さらさ西陣だけが残る。現在、2階はコミュニティスペースとなっており、不定期ではあるがギャラリーやワークショップや手芸教室、ギター教室などとして使われている。

2002年頃、この界隈には注目されるお店が立地してマスコミなどでも取り上げてもらってお客様が大勢来られた、いわゆる西陣バブルの時期があった。その後、バブルははじけて、外来のお客様はずいぶんと減った。

元々、銭湯という地域のコミュニティスペースであったので、老若男女問わず地域の人たちを中心に観光の人たちに来ていただける店となっている。お年寄りが珈琲だけ飲みに来られたり、学生さんが来るようなお店になっている。メディアの露出が多いので観光色が強くなっているが、前提としてランチなど地域の人が集まれるお店と考えている。観光客だけでは成り立たないことはコロナで証明された。地域の人たちが集まっているからこそ、観光客もその中の一員として迎えてもらえている状況が楽しいのであり、観光客だけのお店には魅力は感じられない。

一方で、外から写真だけを取りに来られる方もおられる。写真だけとってお店に入らず帰っていかれたりする。中には、立派なビデオカメラをもって、堂々と中に入って動画の撮影をされる方もいて、それはお断りしている。写真は、お客様が入らないような配慮を求めている。

コロナの時には、お店を占めてお弁当販売だけをしていた時期もあるが、京都はサブカルチャーの色合いが強いので、それこそ京都アニメーションが人気アニメの中でこのお店を使ってもらった時には、沢山のファンの方に来ていただいたりした。そういう人たちの口コミで広がって聖地となり、その後、実写映画で使われたりて認知度が上がった。また、店の者が知らない内に、ルイ・ヴィトンの雑誌に日本の名店として掲載されていたりして、海外の方に知ってもらったりして、少しずつお客様が増えてきた。

けれども、基本は地域の方々と一緒にお店を作っていきたいとのこと。シーズンで浮き沈みが合ったり、一過性で終わる店ではなく、コンスタントにお客様に来ていただける店づくりを心掛けているとのこと。

そして、さらさ西陣の常連さんは、地域にずっと住んでいる人だけではなく、親子で来ていただいていたお子さんが成長して来ていただいたり、4年間の学生生活でなじみになったお客様が、京都に仕事や観光で来られた時に寄っていただく方も含めて常連さんなので、お店と共に常連さんが高齢化するという状況にはなっていない。昔、小さいお子さんを連れてご夫婦でライブをされてた方のお子さんが、今、このお店でバイトをしてくれている。代が変わりながらも常連客が常にいるさらさ西陣という空間である。

これからのさらさ西陣

さらさと命名した時に強く意識した不易流行だが、今でも、そのことを心掛けている。さらさの元々のものは残すけれども、新しいものも取り入れてやっていかないと守っていくこともできない。

これこそ、京都の老舗の精神である。残っているということは戦い続けているからで、戦い続けたからこそ老舗として残っている。その時代、時代のニーズに合わせていかなければ、継続していけない。

京都で、継続して経営していくことによって得られるアドバンテージというものがある。東京に行く必要も魅力も感じない。さらさにも東京をお店を出したらというオファーがあるが、まったくその気にならない。むしろ東京に出ると一過性の流行に流されて失敗するのではないかとのこと。

建物は古くて状態もあまり良くないのでいつまで継続できるかわからないが、できるだけ継続していきたいとのこと。

けれども、さらさにとって不易とは、建物ではなく概念であるので、ピカピカのビルの中に入っても、さらさの根本を失わなければさらさとして経営していけるのではないかとの思いもある。

さらさ西陣の建物は京都市の登録文化財であるとのこと。あえて告知はしていないが、継続して使い続けていくことが建物を残していく最善の方法であり、いつまでも、不易流行を貫いて残ってほしいお店である。