大徳寺通北大路を少し下がった場所にある
平安時代創建当時は大伽藍であり
紫式部ゆかりの寺である
由緒
現在、雲林院は大徳寺の境外塔頭として、大徳寺通北大路を少し下がった場所に位置するが、平安の昔には、今の大徳寺を超える大寺院であり、紫式部ゆかりの寺として伝わり現在でもその発掘調査が続けられている。
天長六年(829)に淳和天皇の離宮として創建され、紫野院と称した。その後、天長九年(832)に雲林亭 と改称される。この時代、雲林亭は桜や紅葉の名所として知られ、歴代天皇、皇后などの行幸、遊宴の地であった。次の仁明天皇の代に皇子常康(つねやす)親王に伝領され、雲林院と呼ばれるようになる。そして、貞観十一年(869)に親王が出家して仏寺となり、僧正遍昭(そうじょうへんじょう)に付属され、元慶八年(884)僧正遍昭の奏請により官寺となり天台宗寺院として隆盛した。最盛期には、今の大徳寺よりはるかに大きな大寺院であったといわれている。
天長六年(829)に淳和天皇の離宮として創建され、紫野院と称した。その後、天長九年(832)に雲林亭と改称される。この時代、雲林亭は桜や紅葉の名所として知られ、歴代天皇、皇后などの行幸、遊宴の地であった。次の仁明天皇の代に皇子常康(つねやす)親王に伝領され、雲林院と呼ばれるようになる。そして、貞観十一年(869)に親王が出家して仏寺となり、僧正遍昭(そうじょうへんじょう)に付属され、元慶八年(884)僧正遍昭の奏請により官寺となり天台宗寺院として隆盛した。最盛期には、今の大徳寺よりはるかに大きな大寺院であったといわれている。
北大路通に面しているパークシティ北大路が建築されたときに発掘調査がされ、釣殿跡や井戸跡、9世紀の土器や漆器が出土しており、あのあたりが雲林院の中心ではなかったかといわれている。最盛期には、北は今宮通り、西は船岡東通り、東は堀川通り、南は鞍馬口通りの辺りが境内地であったのではなかったかと思われている。
紫野の界隈は雲林院があって、天皇・公家の元に歌人・文人が出入りすることによりサロン的に発展をした。その後に寺として隆盛を見ることになる。そうした土地柄というのは今日にも伝わっている。大徳寺があり、茶祖である千利休の墓があり、牛若丸や弁慶の逸話などが残っている。
念仏寺と菩提講
寛和年間(985~987)境内に念仏寺が営まれ、菩提講(極楽往生を願って、法華経を講じ説く法会)が行われた。歴史物語「大鏡」は、この菩提講で落ち合った老人の昔物語という趣向で展開するなど、雲林院の菩提講は盛んであった。
平安時代が、雲林院が最も栄えていた時代であり、鎌倉時代になると庇護する者がいなくなり、徐々に衰退していった。
けれども、雲林院の史書というのはほとんどなく、その多くは枕草子や源氏物語、古今和歌集などに類推しているとのこと。
焼亡・廃絶・復興
平安時代以降は、天皇家の庇護を失い、新しい庇護者を得ることもなく、徐々に衰退をしていく。
14世紀初頭、鎌倉時代末期に、後醍醐天皇の命により雲林院の敷地を割譲して大徳寺開山大燈国師が大徳寺を建立し、臨済宗大徳寺の子院となった。応仁の乱までは、旧大宮通りを挟んで雲林院と大徳寺が並び立っていた。その後、応仁の乱で灰燼に帰した。
現在の雲林院は、宝永四年(1707)に寺名を踏襲して、大徳寺の門外塔頭として旧大宮通りに面して建てられた。観音堂には十一面千手観世音菩薩像、大燈国師像を安置している。その後、100年間位は管理されていたが、1800年代に荒廃していった。その後、客殿は大徳寺塔頭孤篷庵に移築され観音堂だけが残り、昭和38年に先住職が入るまで長く無住の寺であった。
紫式部との所縁
堀川通北大路下がったところに、紫式部の墓伝承地があるが、あの辺りが、雲林院の東の端にあたると思われる。この墓は、大徳寺塔頭の芳春院が管理をされているが、一時期、雲林院が芳春院の管理下にあったことが関係していると思われる。
紫式部の住居跡と知られている盧山寺は、元々、船岡山の麓にあった。応仁の乱で焼失後に現在地の寺町通沿いに移築されたものである。
言い伝えであるが、紫式部の母親、藤原為信女(ふじわらのためのぶのむすめ)は非常に難産であり、雲林院にお参りをしたことで式部が無事に生まれたとのことである。また、大徳寺塔頭真珠庵に紫式部の産湯の井戸が伝説としてある。それを総合して考えると紫式部の邸宅が、今の真珠庵の辺りにあったのではないかと思われる。
紫式部自身が自分の生まれた因縁や生まれ育った地域ということを考えると、ここが思い出の深いところであったろうと想像できる。だから、自分の生まれた場所に墓を立てたことに無理はない。
また、式部自身が仏教に思い入れがあり、仏の教えが興味深かったのではないかと思う。だから、源氏物語の賢木や式部日記に雲林院が取り上げられているのではないかと想像をする。そして、光源氏が桐壺に失恋をして籠る寺が雲林院であり、その雲林院には伯父である律師がいる。これらからさらに想像をたくましくすると、律師は僧正遍照で、光源氏が常康親王、桐壺が仁明天皇ではないかと思ってしまう。その歴史を知っている紫式部だから書けたのではないかと思う。
その名前からしても、式部はこの地に特別な因縁と思いがあったのではないかと思う。
観音信仰
明治維新の廃仏毀釈によって、大徳寺の塔頭もその多くが廃絶されたが、雲林院は無住にも関わらず、廃絶することなく続いてきた。これは、地域の皆様の観音信仰のたまものであると考えられている。雲林院の歴史というよりも観音さんの信仰の力であった。紫式部自身も観音信仰に近いものではなかったかと思っている。
禅寺は檀家を持たない寺であったが、戦国武将、その後の大名の庇護を得られなくなると、大徳寺の塔頭寺院も一般の檀家を受け入れるようになる。
雲林院は、天皇家の関係もあって、代々、墓を作ってはならない寺であった。このため、今日でも墓地はもっていない。
江戸期に、雲林院を再建したのは、冬木家という江戸の材木問屋であり、雲林院以外の寺々にも私財を投げうって多くの寄進をしてきた。しかしながら、100年も経過すると冬木家も大名貸しの取り立てができなくなって、財政的に厳しくなり、寺への支援ができなくなってしまった。しかしながら、大きな支援者が不在となっても、近隣の方々の信仰心のおかげで、なんとか寺の維持がされてきた。
かつて源氏物語千年紀の際には、このお寺を訪れる方も随分と多くなったが、それも一時のことで、やはり、近隣の方の毎日毎日のお参りの力でこのお寺が守られているなという実感を持っている。
観光客の方も、あの雲林院という思いを持ってこられる方もいるが、今となっては、「観音堂だけが残るだけの小さなお寺です。」というと、驚いておられる。
ただ、大徳寺としては、ここが大徳寺発祥の地だと思っており、開山国師が敷地を天皇から賜った寺ということで、特別な位置づけにしていたことだけは間違いないとのこと。したがって、廃仏毀釈の際に、京都府に末永く残すと申請した22ケ寺の一つに加えてもらっていたと思っている。
これから先のことはわからないが、と断りながら、住職の責務としては、次の代に引き継げるように環境を整えたいと語っておられる。
日本人の宗教観は、良い意味でフレキシブルと海外の方に言われるが、それでよいと思っている。この寺には、色々な悩みを抱えた方が観音様に救いを求め、お盆のお精霊迎えには宗派を問わず、お亡くなりになったご縁の方々に手を合わせに来られる。私は、それぞれの仏様を大事にする場所となっていたら、それでよいのではないかと思っている。
時代が変わり、宗教観も変わって信仰の在り方が変化してきたと思うが、やはり、寺や僧侶が必要とされるような行動をしなければならないと思う。少しでも多くの方に寺に足を向けていただけるように法話や写経、地域の交流の場としての活動は継続したいと思っている。包括支援センターの方からの要請で、「大人の寺子屋」を月に一度、高齢の方の交流の場としている。さらに、気軽に相談できる場所にしていきたい。
一切皆苦という仏教の根本を共に考え、少しでも人生を豊かに過ごしてもらえるようにお手伝いが出来たらという気持ちで取り組んでいきたい。何事に対しても感謝の気持ちを忘れないで、当たり前は当たり前でなく、今日の自分の存在は多くの人たちに支えられている。また、自分が生きているのも先祖の営みのおかげであるという気持ちを忘れないように伝えていきたい。住職になった時に、修行時代の師に言われた「人間、何かが足らないくらいが丁度よい。足らないと思った時が本当の幸せである」という言葉がようやく理解できるようになってきた。
藤田住職の熱い思いである。