今宮神社の参道を挟んで並ぶ二軒の茶屋の北側

女将さんたちが店頭で餅を焼く香ばしい匂い

今宮神社創祀とともに神社に供物を奉仕する家として1000年余りの歴史を歩む

「一和」の歴史

創業は長保二年(1000年)と伝わる。神事の際に、お餅を白蒸しにしたものを御神饌として納める役割を担う家であった。今でも、今宮祭りの際には、一和が神饌として納めたものをお祓いし、神輿などに祀ってから神輿が出発する。

そして、その御神饌をお下がりとしていただいて、疫病を払う有難いものとして皆で少しずつ分けていただいた。お餅も固くなっているので、小さく割って、きな粉をまぶして焼いて、白味噌をつけてふるまったので、疫病が鎮まったというのがあぶり餅の始まりである。

餅もきな粉、白味噌も身体に良いものであるので、たとえ少しでも口に入ると、疫病への抵抗力がついたのではないかと思われる。

それから、さまざまな戦乱や災害を乗り越えて、1000余年の長きにわたってお店が続いてきたというのは驚愕に値する。平安貴族の時代から戦乱を経て武家の社会となり、戦国の世を経て、さらに太平洋戦争も乗り越えてきた秘訣を女将はさらりと「神社があってのことだ」と言う。

「氏子さんたちがお宮参り、七五三、結婚式など折々の人生儀礼やお千度などの都度、今宮神社にお参りした際に、寄っていただける。また、お宮参りに行かれた方がお母さんになって、またお宮参りに来られる。そうした氏子さんたちがあっての1000年だと思う」

重みのある言葉である。今は、観光の方が多くなっているが、本当は氏子さんの今宮神社であり、氏子さんのあぶり餅であるとのこと。

地域の日常使いの茶屋

昔は、近隣の高校生や大学生が、よくきて食べるだけでなく、昼寝をしたりして過ごしていた。また、氏子さんがお参りの後にすき焼きをして帰られていた時もあった。今日では、そのような部屋貸しのようなことは無くなってきた。

近くの高校の文化祭の時に、教室であぶり餅を焼かせてもらったこともある。それだけ、生徒さんにも親しみのあるお餅であった。今は、消防法や食品衛生法などがうるさくなって、できなくなっている。

ご当主の思いとしては、もう少し氏子さんを大切にする運営ができないかと思っている。観光客の方が多すぎて氏子さんの足が遠くなっている。例えば、氏子さんを優先的に食べていただけるようにできないか検討したい。神社の宮司さんに音頭を取っていただいて、何とか実現できればと考えておられる。

継承の極意

1000年間、資料が残る(織田信長の上洛時に上京が焼かれたときに資料も焼けた)だけでも25代遡る。並大抵の苦労、工夫、努力が無ければ難しいことである。その秘訣を伺った。

代々、当主は男であるが、男たちは、家を財政面で支えるために外で働き、家(店)の運営は女将の仕事であるとのこと。

これは、営業してお金を儲ける店ではなく、まずは、今宮神社へのご奉仕であるということが優先されてきたからである。家の男は、今はサラリーマンなどをしているが、昔を手に職をもって働き、家にお金を入れてきた。これが、1000年も続いてきた秘訣であった。

お店の営業だけで生活をしていたら、必ず、営業が継続していけないようなことが生じるので、1000年も継承できない。お金ではなく、神社への奉仕と心得ているから継続することができる。

やはり、京都の他の老舗と同様に、女将がしっかりしているからお店が守れて行く。同時に男も、神社にご奉仕する役割を心得て、しっかりと働いてきた。

こうした役割分担、女将が男を立てつつ、しっかりと家を支えるということは、祖母からの教えが大きい。やはり明治の女はしっかりと子や孫を教育してきた。しかしながら、今は、時代が違うので、同じような教育をすることは難しくなっているとのこと。

女将は、小学校の低学年になったら、まず、洗い物からさせられてきたが、今は、誰もそんなことはしない。小遣いやお駄賃も全くなく、家業を手伝うのに、何故、お金が発生するのかという考え方であった。

建物の風情

一和の佇まい、今宮神社の参道になくてはならないものとなっている。一番東にある母屋は江戸時代の建築である。そして、今宮神社に近い棟は、大正元年に増築したものである。建具の高さも違うし、構造も異なる。大正期の建物には、当時の板ガラスが入っており、少しゆがんだ独特の景色を見せている。大正に増築した棟の附属する庭も、大正期の庭らしく、比較的多くの石が使われている。なお、手水は室町期のものと伝わる。

江戸期までは、戦争や自然災害が絶えないので、本当に小屋のような建物であった。世の中が落ち着いた江戸期になって初めて、ちゃんとした家が建てられるようになった。

このため、この家に残る古いものは燃えないものしか残っていない。室町期の手水や1000年以上前の井戸などである。どちらも現役として使われていることがすごい。京都に残る1000年以上前の遺構が残る井戸は、小野小町の井戸と紫式部の井戸、梨木神社の井戸と一和の井戸の4つと言われている。

良い水が出たので神饌のご奉仕に使われたのかもしれない。

製法のこだわり

材料は、お米ときな粉、砂糖、白味噌以外の材料は何も使っていない。神饌でもあり身体によいものだけで作っている。そのため、時間がたつとお餅は固くなるので、出来立ての熱いところを食べていただいている。消費期限も当日限りとしている。

コロナ禍の頃は、ウーバーイーツやネット販売をしませんかというお話があったが、お断りしている。やはり、今宮神社にお参りして頂いて、神様のお下がりであるあぶり餅を食べて疫神を祓って帰っていただくということがこの店の本筋である。

そして、白味噌のタレは、白味噌と砂糖以外は何も入れないで、毎朝、女将自ら練り上げて、お湯で伸ばして炊き上げているとのこと。その割合は、女将以外は知らない。昔は、夏場になると白味噌も腐るので、火を入れるしか方法が無かった。それで、残った白味噌に火を入れると同時に、新たに練り上げた白味噌のタレを混ぜ合わせて使っている。鰻のタレのように継ぎ足し継ぎ足しで、使っているわけではない。

だから、材料には特別なものは何も入っていない。ただ、香ばしいきな粉とお持ちの焦げが白味噌のタレと混ざり合うことによって、独特の旨味が出てくる。もちろんきな粉とお餅の焦げる臭いも食欲をそそる。だから、何本も食べている間にきな粉が白味噌が混ざり、最後頃が一番おいしくなる。道理で、最後の一串を食べるときに、白味噌のタレを残らず絡めて食べたくなる。

女将は老舗旅館の女将同様、一番の働き手である。朝一番に、串を洗って、白味噌のタレを作って、お餅を蒸している。

この毎日の積み重ねが、今宮神社と共に次の1000年につながっていく。