鞍馬口通にひときわ目立つ大石の塀に囲まれた船岡温泉
建物は国登録有形文化財である
銭湯としても初めて電気風呂を設け 温泉の呼称を許された
文化財銭湯の始まり
元々は、当代の祖父が船岡楼という料理旅館を大正12年に創業したことに始まる。当時は、旅館の風呂であり、脱衣場であった。大野の家は、明治時代から庭石商であり、貴船石、鞍馬石を扱う元方をやっていた。その関係で船岡楼の建築の際に、表に鞍馬石や貴船石の名石で塀を仕立てている。大正末期から昭和初期にかけて不景気で、庭を造る人もいなくなったので、庭石商を廃業して料理旅館に転業した。
そして、昭和7,8年頃に、日本で第1号の電気風呂を設けて、当時の通産相から特殊船岡温泉という呼称を許された。当時、京都には温泉というものがなかった。
その後、太平洋戦争が激化する中で、誰も旅行などをする人がいなくなったので旅館のほうは自然と休業状態となり、戦後の昭和22年に旅館を廃業し、銭湯として営業することとした。
祖父の思いで、今宮祭りの巡行の様子や葵祭、上賀茂神社の競べ馬など御目出度いものを欄間に彫刻をした。作ったのは、御所に出入りをしていた彫刻師だと聞いている。さらに天井は格天井となっており、いたるところに当時希少で高価だったマジョリカタイルが貼られている。
お風呂も、先述した電気風呂をはじめ、サウナ、ジェットバス、露天風呂、くすり風呂など種類が豊富である。また、日替わりで男女のお風呂が入れ替わるので、これも楽しみの一つとなっている。
平成15年に国登録有形文化財に登録された。
その少し前、平成10年頃に、3階建てのマンションにしてはどうかという話があったが、祖父が精魂込めて作ったものを私が壊すことはできないといってお断りして、そのまま、残した。
さらに、鞍馬口通を少し東側に行ったところに元藤森湯(現さらさ西陣)があるが、これも祖父が建築し、同じく国登録有形文化財となっている。こちらは唐破風の外観を持ち、マジョリカタイルを多用している。これも、当時、マンションにしないかという話があったが、これも同じ理由でお断りして、残した。
もう一軒、紫野湯といって千本鞍馬口を入ったところにさらさ西陣と同じような唐破風でマジョリカタイルを貼った銭湯があったが、銭湯のお客さんがどんどんと減ってきていたので、昭和45年ごろに私が取り壊してガレージにした。改修して銭湯として貸すことも引き合わなくなってきた。
銭湯のお客さんの変遷
銭湯として始めた頃は、この界隈は西陣の賃機の職人さんが大変多く住んでおられたので、鞍馬口商店街も多くのお客さんで賑わっており、銭湯も大いに流行った。それが、昭和40年代後半ごろから西陣が衰退していくと徐々に職人さんも居なくなり、商店街も廃れていった。
それと入れ替わるように、立命館大学、同志社大学、佛教大学、大谷大学などの学生さんが増えて、お風呂に入るようになった。
最近は、外国の方が銭湯に入りに来られることが随分と多くなってきた。京都市の産業観光局から「船岡温泉を世界に発信してもよろしいですか。」というありがたい言葉をいただき、金閣寺と並んでガイドブックに掲載されたことも影響しているかと思うとのこと。そのガイドブックを外国のお客さんが見せてくれたりした。
いろいろな国の方がお見えになる。今では、10人中8人くらいが外国の方となってしまった。この町内にも昔は100世帯ほどあったが、今ではお年寄りが殆どいなくなって、若い人も出て行って空き家が増えてきている。町内で常連さんは2~3人いるかなという程度である。
銭湯の経営
船岡温泉は、元旦から朝風呂を開いていただいており、楽しみにしている人が多い。しかし、御主人によると何とか継続しているが、最近は、朝風呂をやってもお客さんが来てくれないので、どこも朝風呂をやらなくなっている。特にウクライナの戦争以降、重油の値段が上昇して経費が嵩んでいる。京都市内の銭湯も、毎年廃業するところが出ている。昨年は、北区でも2件廃業した。
最近は、廃材に切り替えているところも出ている。廃材は、材料コストはかからないが、燃やす手間が必要で、自分でやるか人を雇う必要があるので、痛し痒しである。最近、若い人が廃材を燃料に銭湯経営に乗り出しているが、大変だと思う。熱いし、長時間労働で、重労働である。しかし、船岡温泉は、祖父の名前を継承した4代目が切り盛りをされており、次の代に継承されることが期待される。
以前は、午前1時までやっていたが、コロナ禍で午後11時半までにしている。最近、学生さんから午前1時までやってほしいという要望があるが、まだ、コロナは怖い。