北大路通沿い西御所田町の印象的な町家

美しい暖簾と印象的な外観

伝統とモダンが融合している

株式会社 月虹舎

株式会社月虹舎の代表である野原氏の本業は京手描本友禅の染匠(せんしょう)である。下絵、染、刺繍など分業となっている友禅のデザインと全体のマネジメントをするコンダクターである。お客様から依頼を受けて、その人のために特注で着物を作るオートクチュールの仕事が大半である。

株式会社月虹舎は、3つの名前を持っている。一つは、京友禅及び和装小物のブランド名である「京きもの蓮佳」。今一つは、この店舗の「salon & gallery虹霓(こうげい)」、さらに、着物と着物にまつわる日本の伝統工芸の職人の口伝を中心とする技をアーカイブする出版社「月虹舎文庫」。八面六臂の活躍である。

名前の由来であるが、蓮の花は、泥の中で茎をのばしながら育ち、そして綺麗な花を咲かせる。清浄と不浄が混沌とするこの世を美しく生き抜くという象徴的な存在である。女性の人生には艱難辛苦が多いが、着物を着るときだけは、ワクワク感や高揚感に包まれてほしい。幸せな気持ちになってほしい。女性の人生を彩る。という意味で蓮という言葉を使っている。そして佳という字には美しいという意味があり、「蓮佳」というブランド名とした。

また、虹霓(こうげい)は、雌雄の虹という意味を持つ。中国では、ダブルレインボー、副虹(ふくこう)のことで、二重の虹が見えるときは幸せが訪れるという。またコウゲイという音は工芸につながり、月虹舎という社名で虹を使っているので、社名と工芸品を扱うという意味で虹霓(こうげい)とした。

野原氏は、京都造形芸術大学でタイポグラフィーという文字のデザインを専攻し、着物のデザインの他にも暖簾、名刺、HP、書籍の装釘などを自らデザインしている。

大学卒業後、老舗の呉服屋さんで10年修業し、独立した。自身、家が呉服屋であったわけでもなく、いわばベンチャー企業として立ち上げた会社である。

店舗のコンセプト

昨年のお正月にテナント募集の看板が上がっていたので、直ぐにフラットエージェンシーさんに連絡をして借りることとした。

奥の間は畳を敷いて着物を見ていただけるギャラリーにし、表は土間として、観光客にも入っていただきやすいギャラリーとした。内外装ともに、銘木に始まり、数寄屋建築としての左官、京表具、京畳から庭に至るまで、日本の伝統工芸、伝統建築を表現していく場所としている。着物を含めた総合的な文化の魅力を伝えられたら良いなと思って展開している。

大徳寺も近いこともあり、お客様の7割はお茶に携わっておられる方であるので、展示しているものは野点の茶筅を入れる筒などお茶にかかわるものが多い。竹の花入れは、竹工芸で初めて人間国宝になられた生野祥雲斎(しょうのしょううんさい)先生のご子息の生野徳三先生の作品である。

紫野御所田町に店を構える

紫野西御所田町というここの住所に惹かれたとのことである。ここから真っすぐ南に下がると平安京の水道跡や造酒司(みきのつかさ)跡がある都の水脈であり、そこに三千家がある。比良山系から比叡山を通ってくる平安京を支えてきた地下水脈が流れており、まさに染色のための場所である。

先日、空海が淳和天皇の命を受けて作った大きな曼荼羅を見に行った。それは紫根染(しこんぞめ)で、紫草の根から作られた染料(ムラサキ)で染められていたということが発見された。

この反物に刺繍した糸も、そのムラサキで染めたものであり、他にも日本茜や伊吹山にしかない伊吹苅安(いぶきかりやす)という植物で染めている。

京きもの蓮佳では古代植物染友禅技法を研究しており、研究テーマに合わせて糸染に使う水を変えている。この水は、宮崎県の高千穂というところの水である。高千穂には、天孫降臨の際、水がいまだ純でなかったため、神が天から水の種を植えたと伝わる天眞名井(あめのまない)という水源がある。樹齢千年以上の大楠の根元から清水が湧き出ているところである。そこから、水を汲んできて、糸を染めているとのこと。

今は化学染料で染めているものが多いが、かつてはすべて植物染であった。疫病から身を守るためである。天平時代、聖武天皇の時代に、天然痘のパンデミックで4人に一人が亡くなるという事態が発生し、当時の高官も次々と病に倒れ、人々は恐れおののいた。

当時はウィルスという概念はなく、加持祈祷しかなかったがムラサキは皮膚炎に効能があり、発疹や、やけど、虫刺されに良く効いた。いまでも紫雲膏(しうんこう)という漢方薬が売られているとのこと。

聖武天皇は、天然痘や飢餓で疲弊した国民を仏法の力で護る国家鎮護の思想により東大寺の大仏を造営すると同時に、全国に国分寺と国分尼寺を建立する。そこに、金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)という経典を収めることとする。それは全て、紫紙金字金光明最勝王教といって、紫に染めた紙に金字で書かれたものであった。

この天然痘が猛威を振るっていた時代は、ムラサキが珍重された。天然痘の皮膚炎を鎮めるために薬効のあるムラサキで染めた着物を纏えば、着物が着る薬になる。といことで、植物染が発展してきた。例えば赤ふんどし、赤い腰巻などに茜が染料として使われた。赤には浄血作用があって、経血をきれいにしてくれるということで身に纏う。昔は男の子が生まれたら黄檗(きはだ)という植物で染めた初着を着せた。それは胃腸薬になるので、赤ん坊が初着を噛むとその薬効が赤ん坊に作用する。ということで着物は薬草で染められているとのこと。

野原氏自身、ムラサキをライフワークとして研究しており、自ら育てている。将来的にはムラサキ図鑑のような書籍が出版できたら良いなと思っているとのこと。

職人技の伝承

オートクチュールはの京友禅制作は、すべての職人が分業制になっていて、野原さんのチームは平均年齢65歳以上であり、最高齢が85歳とのこと。植物染を教えてもらった染の師匠もこの1月に急に亡くなられた。こうした職人が一人でも欠けると、このレベルのものが出来なくなる。

しかも、職人は基本的に口伝しか残さない。染色に際しては、糊を布の上に置いて防染したうえで染料を置いていく。その防染糊は、もち米と水と塩でお饅頭のようなものを作って、それを蒸してつくる。しかし、塩加減や水の分量や蒸加減などは、その時々の気温や湿度などによって、微妙に違う。それは口伝なので教えられない。データにも残せないし、勘と経験でしかない。

また、西陣織の杼(ひ:緯糸を通すためのシャトル)も作る人がいなくなっている。あるものを大事に使っていくしかない状態になっている。

しかも、こうした部品や材料は量が出ないので職人さんは食べていけなくなっており、子供たちに跡を継がせようとしない。そうするとそういった技術は消えていってしまう。それを何とかしたいと始めているのが出版事業である。

職人がどのように作っているのか、どのような意味があるのかという口伝を残し、アーカイブにしていく。写真も撮るし動画にも残す。西陣の杼もアーカイブしておけば、もしもの時には、宮崎の赤樫という堅い材料を、3Dプリンターで再生することができるかもしれない。こうした何らかのヒントが書物で残っていれば、20年後30年後に、やりたい人の手掛かりになるのではないかとの思いで出版事業に取り組んでいる。

佐賀県の吉野ケ里遺跡で発見された2300年前の生地が何で染められていたか、私の染色の師匠の師匠の前田雨城先生が調査して発見され、そして復元された。この生地は織色(おりいろ)といって経糸と緯糸を全く別の色で染めて玉虫のように光るような表現がなされていた。従来は、平安時代の襲(かさね)の色目から始まったとされていたが、実は2300年前の弥生時代に既にあったということである。経糸が日本茜で、緯糸が貝紫(かいむらさき)で染められていた。有明海で採れるアカニシ貝の分泌液で紫を染める。日本茜は田圃と山の際のところに生える。これは大地のそして山の力を、そして貝紫は海の力、それを織り込み、巫女が神に祈りを捧げるときに海の力と山の力を一体化したのではないか。そういったことを研究して出版している。書籍を出版すると、必ず国会図書館に一冊納めなければいけないので、半永久的に口伝をアーカイブとして残すことができる。そうすると誰かがクラウド上で読むことができる。

私自身も、50年前に草木染という言葉を作られた山崎斌(やまざきあきら)先生の染めの口伝を国会図書館で読み、先生がどのような気持ちで染色に携わっておられたのかよくわかって、「先生よくぞ残してくださってありがとう」という気持ちだった。

先日も、竹工芸作家の生野徳三先生の暮らしの本を出版したばかりである。

伝統を守ることはきれいごとではなく、毎月仕事を出していくこと。生活を担保していくことである。そういう目的もあって野原さんは独立した。こういう店が増えることによって、職人に携わっていただく仕事が増え、収入も増える。そうすると後継者ができてくるのではないかと考えた。

着物と着物にかかわる伝統文化にふさわしい空間に

元々、良くできた町家であったが、建築が好きな野原氏は、オーナーから仏壇はそのままにと言われていたので、仏壇以外は全て改修して、まったく違う町家となっている。

 

外観も、1階部分にモルタルの下地材で仕上げとした龕破床(がんわれどこ)を設けて、2階の虫籠窓との対比が面白い。真中に設けた引き分けの格子戸から中に入ると、広い土間空間のギャラリーが目に入る。そこには版築で仕上げた井戸側が存在感を見せている。そのギャラリーには、茶道具関連を中心とした手工芸品の展示販売が行われている。

その奥には、京畳を敷いた座敷があり、着物のギャラリーとなっている。さらに奥には、丹精込めた庭が広がる。

まず元からあった座敷の床柱は北山杉の絞り丸太で筍が入っている。框は新設し、延命長寿にかけて縁起が良いと言われている槐(えんじゅ)の木を使っている。槐の花蕾は黄色の染料となる。地板は長浜の杉、目は粗くて柔らかいが、長浜の浜ちりめんという生地をよく使うので長浜にゆかりのある杉を使っている。

地袋は静好堂中島さんに表具していただいた。引手はお蚕さんをイメージしているが、一対しかなかったので、他の引手のあるべき位置には中島さんのアイデアで雲母(きら)を入れた唐紙で蝶の文様を入れてくださった。匠の遊び心である。襖や壁の腰紙等もお願いした。

土壁は、一番こだわったところで、表千家の炉壇も担当されている奥田左官出身の原さんに京聚楽中塗り仕舞い切り返し仕上げで施工していただいた。床の4メートル幅の壁は、舞台にしたかったので隅の柱を出さないように内隅仕上げとした。

▲欄干の角部分

欄間のアールの角を付ける前に9回くらい薄く重ね塗りをしていただき、さらに「ひげこ」を打っていただいた上で、和紙やカヤを貼った上で土を塗っていただいた。土も、3年以上寝かせた土を持ってきていただき、中塗り、上塗りとしていただいた。水ごねの京聚楽が最上級と言われているが、中塗 りの上の上塗りを切り返してもう一度塗った。真行草でいえば、行と草の間位の行くらいの仕上げとなっている。床框が格式のある塗り仕上げでなく、庭も草の庭なので、壁を真で仕上げるとバランスが取れなくなる。

また、呉服を扱うので、土壁に練りこむスサから灰汁が出ないように、事前に水洗いをしてから土に練りこんでいただいた。左官仕事に最も適切な秋に上塗りにかかれるよう、時期を合わせて、春先から土台づくりをしていただいた。

土間で存在感を放っている井戸側は、古くは万里の長城や平安京の築地塀などに用いられている土を突き固めて壁をつくる版築(はんちく)という工法でできている。土壁と合わせて原さんと中須左官さんに施工していただいた。

畳は畳三 中村三次郎商店さんで誂えていただき、藺草(いぐさ)の産地である岡山まで行って縁を買い求めてきた。畳のサイズも、床の奥行に合わせて、少し長めの特注のサイズの畳を作っていただいた。本来の京間の畳ではないが、それでいて、目に触らないように計算して納めていただている。

庭は、庭辰さんにしていただいた。引っ越すたびにお願いするので今回で4度目のお付き合いになる。その都度、シンボルツリーを入れてもらうが、狭い庭なので、種類は限られた。お茶の先生に譲っていただいた椿の他に野原さんの好きな山野草を植えている。今はちょうど山アジサイが咲き、青紅葉も良く似合っている。

手水は、前のものを使っていて、その他のものは石組から全て替えている。杉皮も全て張り替えた。手水を置いているのは香川県の名産である庵治石(あじいし)を使っている。野原さんが香川県のご出身であり、彫刻家のイサム野口が好んで使ったという。

縁先の壁も、元は漆喰と浅黄土を塗っていたが、原さんの提案で、塀の上まで同じ京聚楽で塗り直してもらった。こうすることで内と外の一体感が生まれ、庭を含めて続き間のように見える。

土間においているテーブルの天板も野原さん自身が関ケ原石材さんまで行って、石を選び、600キロの石をクレーン車で運んできていただいた。

店を印象付ける壁体の外観にも、細かい配慮がされている。龕破床(がんわれどこ)の開口面は、壁面に直角に塗るのではなく、かまぼこ型に塗っている。そのことにより、実際は厚さが8センチメートルの面の見た目を、視覚効果として6センチメートルの繊細な厚みに見せている。しかも、下地材の塗りのままで仕上げている。座敷廻りの繊細でち密な真、行の仕上げから庭や外観に向けて行、草の仕上げまで、実に計算されバランスよくデザインされている。

 

▲店舗デザイン画

この店の改修工事は、野原さん自身がデザインして、それぞれの職種の職人さんに直接依頼して作り上げている。野原さん自身がコンストラクションマネジャーとなって、全体の指揮を執ったからこそ、完成したお店である。

月虹舎文庫の編集を担当しているのは、奥田左官さんで左官をされていた方だったというご縁で、原左官さんを紹介していただいた。野原さんが建築を好きなので、いろいろなご縁をいただいて職人さんとの共同作業のような作事ができている。職人さんも建築の好きな野原さんと仕事をすることが楽しいようである。意気に感じてよい仕事をしている。やはり、建築は施主と、デザイナーと職人の三位一体で作ってこそ良い建築が出来上がるという良い見本である。

着物の素晴らしい文化を残すための業務であり空間であるが、それだけではなく、着物のある空間には、左官もあり、銘木、京畳、京表具そういう素晴らしい職人技の集大成の場でもある。けれども職人は、そういう職人技を表に出さないし、語らない。

野原さんは、現場で職人さんと一緒にものづくりをさせていただく立場なので、職人さんから口伝を受けられている。それがすごく面白い。職人さんはすごいことをされているし、めちゃくちゃかっこいいことをされている。それをちゃんと残していきたいとの思いが建築にも表れている。

紫野界隈は

紫野はお茶のメッカであり、お客様の7割はお茶の関係の方である。大徳寺の門前で店を営むことができる環境で、しかも路面店であり、北大路の北側で南からの日差しが当たり、人通りもある。そして人と人のつながりもお仕事に生かされているとのことである。

お店の改修の面でも、紫野は、数寄屋建築のすごい大工さんとか表具師さんが集まっておられるエリアなので、そういう意味でも店舗の立地条件としては良かったとのことである。

今後

この6月で創業以来9期目を迎え、来年10周年となる。それまでには、土間の奥に念願だった紫野の井戸水を使った染色の作業場を作ろうと準備をしている。

これからも、お客様に寄り添いながら、お客様に似合う色、デザイン、素材の着物を総合的にご提案していき、職人の文化を守ることを通じて着物の文化を伝えていく染匠として、京都の伝統を守っていくことが期待される。

基本情報

■salon & gallery 虹霓

※呉服のご相談の来店は要予約

住所   〒603-8165 京都市北区紫野西御所田町34-2

電話   075-286-4815

交通   京都市バス「北大路堀川」(北側)よりすぐ

営業時間 13:00-17:00(最新情報はHP・Instagramからご確認ください)

定休日  日曜・祝、不定休(最新情報はHP・Instagramからご確認ください)

WEB   https://www.renca.gekkosha.kyoto/

Instagram https://www.instagram.com/salon.gallery.kougei/