大徳寺通りを北大路から少し下がった小路にある長谷川家の庭に高さ1メートル、幅2メートル、奥行き1メートルの卵型の茶色の大石がある。

かの武蔵坊弁慶が太刀千本奪い取りの願をかけ、夜な夜な、獲物を待っているときに腰かけていた石だという。多くの資料を見せながら物語する長谷川さんの瞳は輝いている。

五条の橋(御所の橋)

童謡に“京の五条の橋の上・・・”とあり、かつては、小学校の教科書にも五条大橋の上で牛若丸と弁慶が戦い、負けた弁慶が牛若丸の家来となるという物語が掲載されていた。

しかし、長谷川さんによると、その場所は、今の五条大橋ではないのではないかということである。かつて大徳寺通り沿いに有栖川という幅員が1.5メートル程度の小川が流れていた。そして、今の北大路通りから一筋下がった通称「紫式部通り」と交わるところに「御所の橋」と呼ばれた幅が1メートル程度の石橋が掛けられていた。そのゴショノバシがなまって五条橋となったとのことである。現に、御所の橋から西へ約30メートルのところに長谷川家の庭の弁慶の腰掛石があり、さらに南に50メートルのところに牛若丸の母の常盤の井戸跡がある。

御所の橋との出会い

長谷川さんは昭和11年に伏見の米屋さん子息として生まれ、昭和32年に長谷川の米屋を継ぐためにこの家に入ったとのことである。そして、この家に来た当時に、大徳寺通りの陥没事故に出くわせる。その時に覗いてみると、石が折れて落ちていた。そのために道路が陥没したものだった。京都市の担当者は、原因がわかったのですぐに埋め戻してしまった。

その話を最近、仲間の一人に話すと「それが御所の橋に違いない」と言われた。けれども、それを見た人間は、京都市の人を除くと、長谷川さん一人だったので、今になって、そういうことを言い出しかねているが、弁慶の腰掛石の由来を確信するようになる。

長谷川さんが米屋に入られた当時は、ご近所の駄菓子屋さんから建勲神社に向かう道にかかっていた橋のことだと聞いて信じていたので、これはただの道路陥没だったと忘れていた。最近になって、いろいろな本などを読んでみると地図も載っており、あの時の陥没の時に見た石が御所の橋(五条の橋)だったのだと思っている。

弁慶と牛若丸の出会い

長谷川家に入った20歳位の頃に、この石のいわれについて親やこの辺りに住んでいた明治生まれの古老から言い聞かされ、大事にしなければいけないと言われていた。その後、昭和47年に京都新聞社が出版した「京都 隠れた史跡100選」に掲載されていることを知り、紫野学区50年誌にも掲載されていたり、家に来られる先生方からも、こちらのほうが可能性が高いなどと聞かされるなどして、今では、長谷川さんもそのように考えるようになっている。

牛若丸が鞍馬寺で修業をしていたころは、五条通り界隈には、少し東に行くと六波羅探題や平家の屋敷が立ち並んでおり、平家に滅ぼされた源義朝の息子である牛若丸が出歩く可能性は極めて低い。一方、この界隈は、昔から源義朝の地盤であり、側室であった常盤御前の結婚相手の藤原(一条)長成の屋敷があった。そこに出入りをして、源氏再興に向けた話を聞いていた可能性のほうが高い。その証拠に常盤の井戸跡が近くにある。

一方、弁慶は紀州熊野の別当弁しょうが二位大納言の姫君に産ませた子とする。異説もあるが熊野の生まれであることは一致している。鬼若と名付けられ、六歳の時に比叡山延暦寺に預けられる。容貌は芳しくないが、学問に熱心で末頼もしい若者に成長するが、怪力を頼みにした乱暴狼藉により比叡山を追われる。比叡山にいたという悪党僧武蔵坊の名を継承し、師と父の名前から一字を取り、武蔵坊弁慶と名乗り、京都洛北の大原別所の無人の庵に住み着く。けれども、乱暴な所業は改まることなく、大原を出て、大阪、四国の寺院を回って修行し、最後は、姫路の書寫山圓教寺で修業に努める。知恵もあり無軌道ではないのだが、尊大な態度が反感を買って、喧嘩狼藉の末に、書寫山全山を焼き払う大火を起こして、京に逃げ帰る。

京に帰った弁慶は、太刀千本奪い取りの願をかけ、この弁慶の腰掛石に座って獲物を待っていた。長谷川さんによると、この大徳寺通りは、京北町から中川を通って鷹峯を経由する西の鯖街道からつながる道であり、この街道を通って都に入ってくる者を狙っていたとのことである。長谷川さんの若いころに、近所の古老から、北大路通大徳寺通の辺りで、昔は駕籠かき、明治に入ってからは人力車、戦後はタクシーが鯖街道を下って都に入る客待ちをしていて、弁慶の腰掛石の話をしていたと聞いていた。その話からも西の鯖街道の入り口は辺りでこのあったと考えておられる。

そして、弁慶は九百九十九本を奪って、満願まであと一本というときに牛若丸に出会うのである。結果、弁慶は破れる。牛若丸の身なりや立派な黄金づくりの太刀を着用していたことから、源義朝の子息であり平家打倒を目指していることを知り、臣従することとなる。その後、牛若丸十六歳の時に鞍馬山を出奔し、義父の縁を頼り、金売り商人吉次に伴われて、奥州平泉に向かうのである。

長谷川さんのライフワーク

長谷川さんは、弁慶の腰掛石のある家を守るだけでなく、その信ぴょう性を確認するために、様々な文献を調べたり、古老や専門家の話を聞いて、資料として整えている。

一方で、ご近所の方と「紫式部通りの会」を作って、北大路堀川を下がったところにある「紫式部墓所」の清掃に取り組むと同時に、界隈の歴史案内ツアーなどを企画実行しておられる。コロナが収束してきたので、2023年10月29日にも、公営財団法人京都市埋蔵文化財研究所などとの共催で、「牛若丸と弁慶の伝承を巡る2023 ~紫竹・紫の歴史発見ウォーク~」を実施されている。

この時には、京阪神から115名の方が参加され、長谷川家にある弁慶の腰掛石を見るために、5つのグループに分かれたとのことである。いつでも見学してもらえるように、長谷川家では、玄関から庭まで、きちんと整えられている。

かつてあった有栖川についても詳細に調査をされて、その川筋を確認されておられる。旧大宮通の上御霊前通の辺りにある櫟谷七野神社(いちちだにななの)の中にも有栖川が流れており、葵祭の斎王代が禊の儀式を行われていたとのことであり、この儀式は、7~8年前まで継続されていたとのことである。古代から中世まで、この紫野界隈の歴史の語り部といっても過言ではない。