上野街道(船岡東通)と建勲通が交差する船岡山山麓に大きな鳥居が現れる

鳥居をくぐり右手に末社の義照稲荷を見ながら東参道の石段を登る

北参道と交わる見晴しから比叡山、東山を遠望すると、まもなく拝殿が見えてくる

建勲神社の創建

建勲神社の御祭神は、あの織田信長公で、嫡男の織田信忠卿が配祀され、大願成就・開運・難局突破・災難除けの神として、広く崇敬されている。

明治2年(1869年)11月に明治天皇より、「永禄天正の頃、天下が分裂し、朝儀が衰廃していた時、大義を詢い畿内を平定し、伊勢神宮の御祭典を再興し、石清水八幡宮や熱田神宮を修造し、旧来の廃典を挽回した忠誠偉勲により」信長公をお祀りし、「永世怠ることなく祭祀すべし」との宣下があり、当初は京都の船岡山ではなく、東京の天童織田藩の藩邸内に祀られた。

織田信長公の評価

信長公は永禄11年(1569年)に足利義昭を擁して上洛し畿内を平定すると、応仁の乱以降の相次ぐ戦乱で築地も破れて荒れ果てていた内裏の修繕を命じ、3年かけて紫宸殿、清涼殿を始め諸々の建物を美しく再生させ、宮中が収入面で困らないよう財政基盤を整え、公家たちの領地や相続に関する施策を講じ、途絶えていた朝廷の儀式の再興にも尽力するなど、朝廷を大変重んじ皇室の回復に努めた。

また現在、信長公については、比叡山延暦寺の焼き討ちや一向一揆鎮圧などを行ったことから、神仏を敬わない魔王のような存在であると描かれることも多いが、信長公は世俗化し武装して敵対する宗教勢力とは徹底的に戦う一方、伊勢神宮や熱田神宮に参詣し戦勝祈願を行ったり、熱田神宮や石清水八幡宮を修復したり、戦国時代に長く途絶えていた伊勢神宮の式年遷宮再興のために多額の寄進を行ったりしており、江戸末期から明治時代にかけて、勤王敬神家の第一人者として高く評価されていた。

船岡山への遷座

明治天皇の宣下により、ひとまず東京の藩邸内の祠に信長公をお祀りした天童織田藩は、明治政府に社殿を造営するための社地の下賜を願い出たが、しばらく沙汰を待つようにとのことで、やむを得ず藩邸内に仮の社殿を造営して本社とし明治3年(1870年)6月に竣工した。また、天童にも一社を造営し同年9月に分祀している。同年10月19日には「建勲」という神号を明治天皇より賜った。

明治政府は平安時代の延喜式に倣い、明治4年(1871年)、神社の社格を定めた近代社格制度を創設した。国家のために特別な功労があった人物を祀る神社は別格官幣社とされ、建勲神社は、明治8年(1875年)4月に別格官幣社に列せられ、京都の船岡山に社地を賜り、新たな社殿を建立することが決まった。

当初、明治政府において社地選定の議論がなされた際、京都ではなく、名古屋や岐阜という意見もあったが、明治7年(1874年)7月に、信長公が勲功を建てた建勲の地でもあり、かつ埋葬の地でもあるということから、京都が選定されている。次いで明治政府から京都府に具体的にどこがふさわしいか上申するように指令があり、「秀吉が大徳寺で信長公の葬儀を行った後、信長公のために船岡山に寺を建立し信長公の像を安置することを計画し、正親町天皇より「太平山天正禅寺」の宸筆の額を賜わった」という大徳寺の古文書の記述により、信長公ゆかりの地として船岡山が選ばれた。

なお船岡山に信長公の菩提寺を建立するという秀吉の計画は中途で沙汰止みとなったが、船岡山は明治に至るまで信長公の霊地として大徳寺により大切に管理され、明治維新の後、上地により官有地となっていた。

明治8年(1875年)4月に船岡山に新たな社殿を建立することが決まった後、社殿の規模や様式等について様々な検討がなされ、明治12年(1879年)に着工し、翌明治13年(1880年)に船岡山東麓に建勲神社の新たな社殿が完成し、同年9月1日に遷座祭が執り行われている。

新たな社殿の建立を祝い、織田家ゆかり人々から様々な宝物が寄進されたが、徳川宗家第16代の徳川家達公からは天下取りの刀と言われている「義元左文字(よしもとさもんじ)」(「宗三左文字」ともいう)が寄進された。この刀は信長公が桶狭間の戦いの際に今川義元から手に入れ、本能寺の変の後、豊臣秀吉、秀頼を経て、徳川家康に渡り、代々徳川将軍家が大切に受け継いできたもので、国の重要文化財に指定されている。

その他、信長公着用と伝わる「紺絲威胴丸具足(こんいとおどしどうまるぐそく)」や信長公の側近であった太田牛一直筆の「信長公記(しんちょうこうき)」なども明治時代に寄進され、いずれも重要文化財に指定されている。

▲画像出典:建勲神社ホームページより https://kenkun-jinja.org/donation/

山上への移転

明治13年(1880年)に新たに完成した社殿は、狭い、湿気が多いといった問題があったことから、明治43年(1914年)に山上の現在の位置に移建された。

▲出典:建勲神社ホームページより https://kenkun-jinja.org/precincts/

移建にかかる費用については、全国の崇敬者や信長公ゆかりの人々からの寄進によって賄われたが、西陣の町衆からも多額の寄進があったとのことである。

かつて信長公が上洛した際に、軍律も厳しく乱暴狼藉を働くことなく、京都の治安を回復し、応仁の乱以降の戦乱で荒れ果てた京都の地に平和と秩序をもたらしたこと、さらに地子銭(現在の固定資産税)を免除し、西陣発展の基礎を築いたということで、西陣の町衆は信長公に感謝しており、建勲神社の船岡山への建立を大変喜んだという。

信長公の偉勲を後世に伝えるために毎年10月19日に斎行される船岡大祭も、西陣各学区からの奉賛により明治時代から盛大に開催されている。

戦後の歩み

戦後、昭和21年(1946年)、GHQの神道指令により、近代社格制度は廃止され、建勲神社は別格官幣社から宗教法人へと位置付けが変わった。戦前は、神職の給与や社殿の維持管理費などは官費によって賄われていたが、戦後は一切官費の支給がなくなり、大変な苦労があったとのことである。終戦を迎えた時、現宮司の祖父の松原静氏が宮司を務めており、ほかにも何人か神職がいたが、とても食べていくことができないため、松原静氏が1人残って神社を守っていくこととなった。その後、先代である父の松原宏氏、当代の松原貴子氏と継いでこられた。

当代が生まれたときには、先々代が宮司をしており、先代は神職の資格を取得後、会社員として働きながら祭祀を手伝うなどしていた。当代が中学生の時に先々代が亡くなって先代が後を継ぐこととなり京都に移り住む。その頃は、実家が神社であるという感覚のみで、弟もいたため、将来、後を継ぐという意識は全くなかったとのことである。

その後、先代が60代半ばになる頃、弟が後を継ぐ意思がないということで、先代から将来宮司を継がないかと初めて話があり、その時に女性でも宮司になれることを知った。当時は東京に住んでいたが、父母も年を取ってきており誰かがそばに居なければという思いもあり、また、自身も子供を授かり、祖先から子孫へと続く縦の繋がりを実感し、次世代に伝統を継承していくことの大切さを感じていたこともあり、宮司を継ぐことを決意した。それから子育てをしながら大学で神職の資格を取得し、15年ほど前に京都に戻って先代の下で神職として働き始め、2年ほど前に先代が引退し当代が宮司になったとのことである。

現在の建勲神社

10年ほど前から、刀剣ブームや御朱印巡りブームもあって、以前に比べ若い女性を中心に参拝者が増えた。平成27年(2015年)から、京都の刀剣にゆかりのある四神社(粟田神社、豊国神社、藤森神社、建勲神社)で京都刀剣御朱印巡りを毎年実施しており、来年は10周年となる。

平成30年(2018年)には信長公の守護刀であった「薬研藤四郎」の再現刀が寄進され、公開の際には神社の境内が多くの参拝客で賑わった。「義元左文字(宗三左文字)」の刀も京都国立博物館を始め、東京、静岡、愛知、広島、福岡の美術館や博物館の特別展に相次いで出展され、各地で大盛況となった。

平成30年(2018年)の台風21号の際には、建勲神社でも数百本の木が倒れご社殿にも大きな被害があったが、全国からご寄進をいただき、森林の保全や神社建築に携わる方々の尽力もあって無事復旧することができたこと大変有難く感じている。

その後、ご献木いただいた桜やもみじの若木を植樹し、森の整備も進んで、以前に比べて境内が明るくなり眺望も良くなった。山麓の大鳥居から山上の御本殿まで140段ほどの石段を上がらなくてはならないが、途中、石鳥居手前の踊り場からは、比叡山など東山三十六峰を遠望し、眼下に京都市街を見晴らすことができるようになり、立ち止まって眺望を楽しむ人も多い。

信長公没後450年、生誕500年に向けて

信長公は天文3年(1534年)に誕生され、天正10年(1582年)に本能寺の変により数え年49歳で薨去されており、今から8年後の2032年には没後450年、10年後の2034年にはご生誕500年の記念の年を迎える。

今後、記念の年に向けて奉祝の機運を高め、16世紀後半、戦国乱世を治め、天下統一の道筋をつけ、日本のために大いなる勲功を立てられた信長公のご事績を広く伝えていくとともに、建勲神社にお越しになる方が、清々しい気持ちでお参りいただけるよう、この厳かで凛とした境内を維持し、明治時代から多くの人々により大切に守られてきた建勲神社を次世代にきちんと継承していきたいと考えている。

様々な人の支援をいただきながら今日があるということを強く感じておられ、信長公が日本に尽くされた功績をかみしめながら、また、その信長公を崇敬する人が全国におられること誇りにも頼りにもしながら宮司の勤めを果たしておられる。

引き続き、多くの皆さんに愛される神社となるよう努めていかれるお気持ちを持っておられることを強く感じさせていただいた。

基本情報

■建勲神社

  • 住所   〒603-8227 京都市北区紫野北舟岡町49
  • 電話   075-451-0170
  • 交通   京都市バス「建勲神社前」(南側)より徒歩9分
  • URL   https://kenkun-jinja.org/