上野街道(船岡東通)と今宮通の交差点を西に進むと石畳の参道が現れる
参道を挟んで並ぶ2軒のあぶり餅の茶屋に江戸期の風情を見る
参道から東門を入ると百ケ町を超える産子の崇敬を集める社が建ち、多くの末社が並ぶ
今宮神社の由緒
今宮の神々が鎮まる紫野の地には平安建都以前から疫神を祀る社があったとされる。
平安京には幾度となく疫病が襲い、その鎮静を願う御霊会が度々営まれていた。正暦5年(994)、都に猛威を振るった疫病を鎮めるため、紫野のこの地に祀られていた疫神を神輿に奉じて船岡山へと安んじ、御霊会を営んだことをもって今宮神社の起りとしている。のち長保3年(1001)、再び流行した疫病を鎮めるために紫野において改めて御霊会が行われた。当社地には新たに神殿三宇が造営され、新しい社との意味で今宮と称号された。ただ、この紫野の今宮が今宮社として固有の名称化するのは、のちになってからであろう。
疫神の祀りは、この地にとって大切なこととして御霊会の以前より行われてきたが、御霊会が営まれることによってそののちは公の祭として行われることになる。そして華やかな平安王朝文化の時代から権力基盤が武家へと次第に移っていく中で、やがて今宮の祭りは民衆の祭りへと変容していく。
▲境内の様子
やすらい祭
船岡山で行なわれた御霊会には、京中の老若男女が挙って神輿の供に列なり、綾傘に風流を施し囃子に合わせて歌い踊り、病魔を移した人形を難波江に流したと記されている。この鎮疫の願いの広がりが後のやすらい祭につながっている。
久寿元年(1154)、勅によって禁止されたとする記述で夜須礼が文献に初見される。不穏とみなされ禁止されるほどに祭が賑わったというのであれば、それまでにいくつかのやすらいに関する記述がありそうなものだが、初見でいきなり禁止ということには違和感がある。
当時、藤原摂関家には内部対立があった。藤原氏の長者は、賀茂祭に先駆けて賀茂詣を行なうことで氏長者であることの証としていたが、洛中から賀茂詣に向かうには紫野を通ることになる。これを阻止したい勢力との対立が、紫野の地に夜須礼と云われる騒乱の情況を造り出したのではないかとする研究もある。災厄の鎮静を願い都の人々が今宮の社に挙って詣でる有り様は今宮社の創祀より繰り返されてきたことであり、混乱する中央政治への不安に戸惑う人々の中に騒乱の種をまくようなことが行われたのかもしれない。
今日見れば、地域の風俗として定着し、作為的に手を加えられたというようには感じられないが、当時としては、風流の花をかざした傘をさし立て鬼が歩き回る様子は特異な祭りであったのかもしれない。やすらいの成立とともに今宮に持ち込まれた考え方が「花鎮め」である。春、舞い散る花に誘われ飛び広がった疫神が疫病を広めると捉え、花が散らないように、疫病が広がらないようにと願い「鎮花の神事」を行うのである。やすらい祭は「やすらい花」ともいわれる。大きな傘に季節の花を飾り、飛び散ろうとする地域の花々に「やすらい花や」と声をかけながら災厄が広がらないようにと願い地域を巡っていく。紫野は長く農村地域であり、花から実を結びそして稔りを迎える、その実りを願う農耕の祭りとしてもやすらい祭は根付いていったと考えられる。
紫野御霊会から今宮祭へ
やすらいが農耕を生業とする紫野の地の願いに密着した祭りとして定着していく一方で、御霊会は公の祭であった姿を変える。疫神をも鎮める力強い神々を新しい町づくりの活力の源としてお迎えする町衆の祭りとして今宮祭に継承される。
古よりこの地には疫神を祀る信仰があり、そこへ今宮を号する新たな社が建立されたことによって、本社と摂社(疫社)という一対の構造として今宮社は成り立っている。やすらい祭は、疫神の社へと疫神を鎮め祀る祭祀である。疫神は追い遣るのではなく、本来、在るべき疫の社に穏やかに鎮まっていただくのである。まさに疫とも共生していくという考え方に立つ祭りである。
▲本社
一方本社には、疫神を鎮めその疫神の霊力をも都を鎮護する力と為す大きな神威として今宮の神々が祀られている。度重なる戦乱で荒廃した都が民衆の町として復興していく中で、人々にとって今宮の神々は、新たな地域の創生を共に支えゆく神々であった。町を災疫から鎮護する神々が、その力をより積極的に顕わし、さきわい賑わう町を創りあげてゆくために神輿に奉じお迎えするべき神々となった。その意味では今宮祭は新たな祭りでもある。本社には大己貴命(おおなむちのみこと)事代主命(ことしろぬしのみこと)、奇稲田姫命(くしなだひめのみこと)の三神をお祀りしている。この三柱の神々を三基の神輿にそれぞれ奉じてお旅所へとお迎えする祭りが今宮祭である。紫野御霊会を修した神殿三宇の神々を祀る形は継承しているが、その考え方としては変化している。御霊会が疫神の荒びを鎮める和めの祭りであったのに対し、今宮祭は積極的に町を幸う魂振る祭である。西陣が織物の町として発展してゆくとともに、次第に祭りの形が整えられ、西陣の祭としての今宮祭が形成されていった。
▲織姫社
産子地域
今宮神社の氏子域は概ね2万戸で構成される。東は堀川通り(一部は小川通り)、西は七本松通り、南は竹屋町通り、北は鷹峯の山際までとされてきた。やすらい祭は、かつて農村地域であった船岡山以北一帯に現在の今宮の氏子域を越えて広く継承されている祭りである。今宮祭は、船岡山の南から北へと次第に拡大してゆく西陣の町と共に賑わいを広げてきた祭礼であり、大きくなった町域が一体となった今宮の氏子を結集する氏子祭として今に至っている。今宮祭の神輿は、この北の氏子域が担う。今日、多くの祭で地元地域の皆さんの力だけでは神輿の巡幸が難しくなってきているが、今宮祭では今も地域の与丁会の奉仕で神輿が巡幸されている。
ただ、かつては3つの与丁会組織が競い合い、大宮神輿は待鳳・鳳徳、中神輿は鷹峯、先神輿はあぐいとそれぞれの地域によって支えられてきたが、近年、先神輿は鷹神輿与丁会の預かりとなっており、更に地域社会が変わっていく中で、地域で神輿を支えることにこれまで以上の努力が必要となっていることも事実である。こののち、地域というものをどのように考えていくかが大きな課題である。それぞれの地域が果たしてきた役割が変わりつつある。農地の宅地化が進むことによって早くから変化を続けてきた北の地域に比べて、比較的安定したまちの姿を保ってきた西陣を中心とした地域が、地域産業に支えられてきたこれまでの地域構造の変化とともに、近年大きく変容を始めている。それぞれの特徴ある地域性が薄められて次第に均質化してきている。その中で新たに迎える住民にとっては神社や祭りとの関係はより希薄になってきている。
これまで神輿の巡幸を支えてきたのは社に程近い北のかつての農村地域であり、その祭礼列を賑々しく飾り華やかに装い地域を挙げて迎えてきたのは南の町衆である。それぞれに地域の矜恃を持って努めてきたが、これからは氏子地域全体で今宮祭を支えるという地域のあり方が求められているように思う。鉾は各鉾町で、神輿はそれぞれの与丁会でという地域ごとの役割を継承してきたことは大切にしながらも、今後は、氏子地域全体の中で話し合い、氏子全体で祭りを支えていく方法を検討するべきときに来ている。
地域の外に支援を求めることも考えねばならないかもしれないが、まずは地域とは何かを改めて考え直し、新たな地域共生の道を探る必要がある。これまで、地域に住み地域で働き地域と共に暮らす人たちの存在を前提に神社や祭りの運営はなされてきたが、居住と生業の分離が広がり、多くの学生が集まる京都の特性も含めれば、より動的な人々が地域の中心的存在となっている時代にふさわしい神社の運営方法が求められている。
地域の祭りの存在意義
どの祭りも地域としての大きな喜びであり願いであり、地域の誰もが積極的に取り組む必然の祈りだったはずである。決して何とかして守らなければならないことや重荷に感じるようなことではなかった。今は、これまで続けてきたからには継承してゆかなければいけないことのようになって、祭りの中心にあるものが変質してきてはいないだろうか。新たな意欲をもって祭りに入ってこれなくなってきている。今を生きようとする若い人たちが地域としての今の願いや祈りを祭りに表現できなくなっている。地域そのものが命ある存在として地域の暮らしを積み重ねているのであり、祭にはこれまでつないできた歴史を踏まえた今の地域の願いが表わされていなければならない。そうでなければ、テーマパークのパレードなどと同じことになってしまうのではないだろうか。
地域に根差した地域の人たちが地域の願いとしてきたことが根本的に変わったわけではない。今も京都は京都であり、紫野は紫野であるが、働き方や暮らし方、環境も大きく変わってきている。今の人たちが、今の自分たちの地域の祈りや願いをそこで表現してこそ、祭りを本当に継承したということになる。地域が一つの生命としてともに生きるという基本的な願いが変わるわけではなく、祭りのあり方が根本的に変わることは考えられない。しかしあまりにも固定化され、形式化し、負担感ばかりが増してきている。大きな災厄のために今までどおりにはできないからというのではなく、つねに、祭りの原点に立ち戻って、ああしたい、こうしようという思いをぶつけあって、少しずつ変化していってこそ、今を生きている自分たちの地域としての願いや祈りが表わされた本来の生きた祭りになる。
十二基ある鉾のうち、今年、久しぶりに一基が巡幸の中で鉾を差した。今宮鉾では近年、鉾を横にして荷ったり、台車に差し立てて巡幸に加わることが通例の姿となっている。それは、元の姿とは異なるけれども、祭りへの願いを大切にしているからこそ継承していくために工夫されたことであり、祭りへの取組みとしては前向きにとらえられるべきことだと思う。以前、鉾の修復について相談したところ「補助金については、鉾は認められるが台車は対象とならない」との話を聞いた。台車の製作された年代が新しいことが理由である。祭りは遺産ではない。現代の人の中に生き続けてこそ祭りである。
暮らしの価値観
現代では、便利になったり楽になることにばかりに価値が置かれている。手間のかかることが全て良くないことのようにされている。しかし、ともに生きる人の世の中にあって面倒だと思われることこそが大事で、その中で人が人として生き、お互いにつながり合い地域ならではのあり方を作り上げていくのであろう。これを切り離して、面倒がなく、互いが助け合うこともなく、どこからかサービスがやって来るのだから不都合なことはないかのように、地域は分断されていく。そのことを深く考えることもなく、単純に喜ぶべきことで、価値のあることだとしているように思われる。
しかし、大きな災禍の渦中に改めて思い知らされたのは、そういう安直な暮らし方は、穏やかな地球環境に恵まれていた束の間の危うい均衡の上に成り立ってきたことであって、長い歴史の中で、世の中を支えてきた考え方とは合致していないということである。面倒と思われることを大切にしていくことによって地域がしっかりと結びついているからこそ、地域が一つの生命となって乗り越えていける。決して強くはないヒトという存在は、お互いにつながり支え合うことで今の暮らしを得てきた。生命すべての本質ではないだろうか。近頃は、互いの理解などはなくともそれぞれの価値観の世界で存在していたら良いかのように進んできたが、永続するはずもない。ともに生きることに取り組んできたからこそ人の世は成り立ってきた。そこにこそ一番の意味がある。
祭りは、およそ不合理とも言える。大勢が集まって重たい神輿を舁き上げ、祭りの安全、地域の安寧を願う。合理性を考えるなら神輿を軽くするなり、動力を使うかということにもなろうが、そうではない。地域の人たちがそれぞれの持てる力を結び合わせてこそ成せるということを年々積み重ねていくことが、地域を作り上げていく、その過程が地域にとって大事なことである。祭りは、その地域を作り上げていくために長年の知恵が作り上げてきたものとも云える。面倒だからといって、疎かにしてしまえば、すべてが失われてしまうのではなかろうか。
▲拝殿
疫神の変遷
▲疫社
疫社は疫神を鎮め祀る社である。しかし、人々の鎮疫の祭りに込める願いと祈りの表わし方が形を変えていくことで、神々はさまざまにご神徳を顕わされ、人々の疫神に対する理解は時代とともに移り変わってきた。疫社は徳川期には牛頭天王を祀る社とされ、明治より後は素盞嗚尊を祭神としてお祀りしている。神々は変わらない存在としてあるのではなく、それぞれの地にそれぞれの願いがあり祈りがあり、その表出である祭りを通して人々が感じ取っていくことによって存在する。神は祭とともに生る。祭りに心を重ねることによって、その地が平穏無事であることに対する御神徳を感受する力が生まれ、その御神徳の出づる神の存在を感得する。土地々の神への祈りはそれぞれの自然環境とともにありながらも、日本の風土は押し並べて穏やかに豊かであり、神と社の在り方も自ずと共通し収斂していくが、一方で、神の姿は時とともに変わってゆく。ときに沿った鎮疫の祭りによって感得された疫神は、牛頭天王ともされ、また素盞嗚尊(すさのをのみこと)として祀られるが、根本は疫神である。御霊会が修せられていた時代も、花鎮めの祭りがやすらいとして定着したのちも、そこにある地域の願いはただ疫神が鎮まっていただくことである。御神名の問題ではない。
社殿の復興
▲八社
応仁の乱ののち衰退していた今宮神社の復興は、桂昌院の力によるところが大きい。西陣の町娘として生まれたお玉は、三代将軍徳川家光の側室に上り、五代将軍徳川綱吉の生母桂昌院となるに至って大奥に権勢を極め、従一位という女性として最高位にまで上り詰めた。桂昌院は故郷西陣の興隆に努めるとともに、今宮神社の再興にも力を尽くした。社領百石を寄進し、神輿や鉾を整え祭礼の復興を推し進めた。現在の氏子区域は、桂昌院の時代に整えられている。御旅所の位置は西陣の町が次第に発展していく中で、いろいろと変遷してきたが、大宮頭と云われた当時の大宮通りの北の端に現在の御旅所は位置している。
参道とあぶり餅
この地は洛北船岡山の北にあたり、紫野の名のとおり一面の野であった。この辺りを通り洛中から北へ延びる道は、一つは大宮通から別れる上野街道(船岡東通のあたり)であり、今一つは、千本通から繋がる鷹峯街道であった。従って、上野街道から西へ向う東参道と、鷹峯街道から坂を下る西参道の二つの参道があり、このうち東参道を正参道、東門を正門としている。正参道沿いの東門前にあぶり餅の茶店が向かい合う。
▲東門
五月の今宮祭の巡幸路は、西参道から出御し正参道である東参道より還御する経路である。今年南参道を出御する経路としたのは、台風で損傷した、今宮氏子にとっての大切な象徴である大鳥居の再建を奉祝してのことである。北大路通が整備されて船岡山の北へと町が拡がると、神社と南の氏子区域とを直接結ぶ参道が望まれるようになり、南の新参道が整えられた。大正の末、南参道の北端にあたる神輿庫を東へと移し、そこに新たに楼門が建てられ、昭和3年、今回再建された大鳥居が氏子によって寄進された。
▲南門(大正創建)
大鳥居の再建と祭りの本質の再確認
平成29年の台風で傾いてしまった大鳥居を、地域の方々の思いをもって再建することができた。その取り組みを始めた矢先、コロナ禍で寄進のお願いにあがることもできないという状況となったが、大鳥居の再建を進めていくことで、ともに生きる地域の願いをしっかりとつないでゆけるならば、今、神社として何よりもなすべきこととの思いで、この5年間を取り組んできた。大鳥居を寄進していただいた百年前とは地域の産業構造が大きく様変わりしている。その中で世界を覆い尽くす災禍に全く先が見えなかったが、こういうときだったからこそ、地域の皆さんに手を携えていこうとする気持ちを強くもっていただくことができたように思う。多くの心強いご芳志をいただき、昨年、皆さんとともに再建を祝うことができた。
▲2023年に再建された大鳥居
大鳥居の再建を進めるその間にも祭りは巡ってくる。
まさに今の祭りをどうするのか。疫病の鎮静と地域の安寧を願う祭りとしてこの時こそやらなければならない祭り、でもこれまで通りにはできない。何が大切で何を本質として祭りを行うのかを皆で考えながら、その時に出来ることに、精一杯取り組んできた。そして、年々の祭りもつねにそうあるはずである。例年のとおり滞りなくではなく、何を願って祭りがあるのかという根本に立ち戻って、今を生きる祭りに取り組むことに祭りの本質がある。そのことを再確認する祭りとなった。世の中が落ち着いたからといって、単に元に戻すというのではいけない。どうするのかをともに考えたことの意味を噛みしめなければならない。その過程こそが大切である。すべての活動がままならなかった時を無にすることなく、本来の祭りとは何かということをこれからも問うていかねばならない。
コロナが収束に向かうというこのときに大鳥居の修復が成り、今年の今宮祭には、その奉祝を表わす巡幸経路を検討する契機となった。歴史的には西の参道から出御してきたが、今回、近代の新参道である南参道から大鳥居を渡り出御する巡幸路を提案した。これまでの経路とその沿道の皆さんの思いも大切にしつつ、どのように願いを共有しともに祝うことができるかを考える祭りとなった。
地域の願いや思いをどのように祭りとして表わしてゆくかを、地域の中でつねにしっかりと考えていくことが、祭りの本来の意味である。それを見失ってはいけない。
祭りを文化財として固定化し、その文化財を活用するという考え方では、生き生きとした祭りの本質からは遠くかけ離れてゆくばかりであろう。これまで積み上げてきた歴史を止め費し、やがて消し去ってしまうことになるのではなかろうか。地域の人たちが切なる願いとして捧げる祭りの姿に、ともに心を振るわせ、湧き出でる新たな力に自ずから突き動かされるそんな祭りでありたい。その共鳴の輪を大きく広げることこそが祭りを支えるためにあるべき方向であろう。
この紫野の地の祭りで、紫野の人たちの紫野への思いに触れ共に振るえる心を見つけることができたなら、ともにこの地の新たな歴史を創りゆこうではないか。或いは、自らのあるべき場に帰りその地の人たちとともに、まさに今を生きている祭りに取り組もうではないか。
基本情報
〒603-8243
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