今宮神社の参道を挟んで並ぶ二軒の茶屋の南側
女将さんたちが店頭で餅を焼く香ばしい匂い
江戸時代から変わらないスタイルが魅了する
「かざりや」の歴史
創業は、分かっている限りでは江戸時代初期と言われている。江戸初期頃に庶民が各地の神社に参拝するという行楽の楽しみが確立された。それに伴い神社門前に休憩処として茶店ができるようになった。それが各地で見られる神社参道の二軒茶屋と言われている。京都では上賀茂神社、下神神社、北野天満宮など、どこの神社にもありました。京都で一番古いと言われているのは八坂神社の二軒茶屋と言われていますが確証はありません。
お餅などといった物を庶民が食べることができるようになったのは江戸初期であり、それ以前は、公家や大名でも年に一度口にできるかどうかの貴重で特別なものであった。
ここの「あぶり餅」だけでなく、上賀茂神社の焼き餅、下鴨神社のみたらし団子など全て白く丸い物である。なぜ門前茶屋に餅や団子を提供する店が多かったのかというと、神聖な丸いお餅(神社の「神鏡」を形どったものが丸餅。白い餅は純白無垢のものとして、神秘な霊を宿すものと考えられた)を神社にお供えし、公家や大名が、年に一度、大きな祭の後にお下がりとして少しずつ分かち合い食した。その習わしが、庶民にも浸透し、無病息災、子孫繁栄、長寿を願ったとされる。そして、各家庭でお正月の鏡餅(神境の餅)としてお供えして、お下がりをいただくという風習へと定着する。
ということから考えると、諸説あるがやはり「あぶり餅」の始まりは貴重なお餅を庶民に提供できるようになった江戸初期ではないかと考える。
同時に、今宮神社の「やすらい祭」は無病息災、疫病退散のお祭りであり、疫神様を崇敬し、供えられたお餅を頂き健康を願うと言う意味からも、団子や和菓子ではなく「お餅」を振る舞う事になり「今宮門前茶屋のあぶり餅」が誕生したと言われる。西陣の織物地域を産子として持つ今宮神社には、産子の祈願から日々のご参拝、七五三、お宮参りなどで、神社は地域と共に繁栄し、産子は無病息災、長寿を願い参拝する。また「あぶる」という言葉には魔除けの意味があり、名の由来も「魔除けの餅=あぶり餅」となったといわれ参拝の帰りにあぶり餅を食することで、無病息災、長寿を願うといった、厄よけ餅という云われが出来たのもうなづける。
二軒茶屋として残っているのは全国的に珍しい。今宮神社の本来の参道は、東側を通る船岡東通(上野街道)からアプローチする道で、東門が正門であった。このようにきちんと参道が残り、そこに二軒茶屋が存在するという昔からの姿が残っているのはここだけとなっている。
代を重ねる工夫
代々続いてきたのは、時代に合わせて工夫をしてきたからではないか。太平洋戦争のときには、「あぶり餅」などを食べる余裕のある人はいなかったので、着物を売って材料を仕入れ、すき焼きのようなものを提供してお店をつないできた。
こんなしんどい仕事はやっていられない、ということはあると思うが、親の背中、祖母の背中を見て育った人間が、それなりに考えていくことである。続くところは続くし、そうでないところは誰かに一時やってもらったり、仕事を辞めてしまうかのどちらかである。結果としてそれぞれの代の努力で続いてきたのである。やれと言われて続けられるものではない。
またこの仕事は、男性が継ぐものではなく、女将が代々つないでいくものである。男性は外で仕事を持つということになる。大工であったり、神社、御神輿などの錺(かざり)職人をしていたり。屋号の「「かざりや」」も錺職人に由来するのか、焼き餅の形が飾り簪に似ていることに由来するのかわからないが、漢字で書くと「錺」なので、前者なのかもしれない。
代々地元で商いをさせて頂いていることもあり、地域の方々に多大なる恩恵を受けてきたのは紛れもない事実。その恩恵に対し如何に応えるかが大切。皆様にお祝いして頂き紅白の垂れ幕がなされたお店から嫁いだ母。その母が生まれた大宮商店街の産科で同じように産声をあげた私。代々語り継がれた事、この目で記憶し、地域と共に育んできた今ある歴史は、地域に恩恵を受けた証でもあります。よく言われる「地域に根ざす」と言うことは何らかの形で、受けてきたご恩に、大なり小なり報いる事が、一つのあり方ではないかと考える。
それが商いでの貢献なのか、代々地域に居住して歴史を紡いでいく事なのか、、、根ざすと言うことは簡単なようで案外難しい事なのかもしれない。
「あぶり餅」のスタイル
黄な粉をまぶして親指大にちぎった餅を串にさして、炭火で焼くというスタイルは、創業当時からのものだとのこと。大徳寺の変わり者一休禅師が、竹串に餅を刺して、囲炉裏で焼いたという説もあるが、定かではない。今宮神社に奉納された竹のお下がりをいただいて使ったともいわれている。竹串のことを、神にささげるために麻や木綿をかけた榊や竹などの木製品である「斎串」(いぐし)ともいうのは、そのためでもある。
お米は、丹後の自社の田圃で育てた上物の羽二重であり、大豆も京都産で、原材料は自ら調達することにこだわってきている。竹串も長岡のものを使っている。成長が極めて早い竹の使い道の一つとなっており、SDGsに貢献している。炭は、紀州や土佐の備長炭を使っている。
しっかりと焦げ目がつくほど、まったりと上品な白味噌だれとの相乗効果が生まれ、最後には、残った白味噌だれをしっかりとお餅に絡めて食べきり、お茶で口中をすっきりとさせる。何度でも食べたくなる。
今ほど観光客が多くない時には、近くの高校生が良く食べに来て、そのまま、座敷で寝ていたり、座敷に置いてあった囲碁や将棋を指したり、のどかな時代もあった。高校時代にこの近くに住んでいた中高年にとって、「あぶり餅」は生活の一部となっていた。
観光産業?
いつのころからか、ゴールデンウィーク等の連休や桜や紅葉の観光シーズンには、多くの観光客に来ていただいている。それはそれでよいが、元々は地元がメインであり、地元の人が崇敬する今宮神社に参詣した後に、あるいはお祭りのときに食べていただいた餅であるので、そこは大事にしたい。
江戸時代に寂れていた今宮神社を復興したのが、西陣出身のお玉さん(三代将軍家光の側室で五代将軍綱吉の生母となった桂昌院)。それを契機に、西陣の旦那衆がいろいろな組を作ってお参りするようになる。その時の休憩処として指定されていた名残が今もあり、それが西陣産子地域の「お千度さん」である。産子地域の町内毎に桜か紅葉の時に、日程は事前に神社と調整したうえで町内がそろって今宮神社に参拝する。その時に、全員が木札か竹串をもって、拝殿、本殿の周りをぐるぐると千度、回る。一人が千度回るのではなく、みんなで千度回る。その際に拝殿の四隅の隅木を木札か竹串でチョンとつつく。そのため、隅木には大きな窪みが開いている。そして、境内はいくつかの町内で満員となり、そこかしこでコミュニケーションが始まり、その後「直会」(なおらい)が行われる。たいていは、「あぶり餅」を食べてワイワイと賑やかに過ごす。時代と共にその数は減っているが、いまだに継承されており、地域の暮らしの文化と共に「あぶり餅」が存在していたことが良くわかる行事である。
歴史的建造物
参道を挟んで南北の店先で女将さんたちが団扇を使って炭火で餅をあぶっている様子は、その歴史的建造物の佇まいと共に、江戸時代にタイムスリップしたような気持になる。
「かざりや」の本体の建築物は、京都市の文化財保護課によると築後450年のものだとのことである。大きな柱も残っており、いくつかの部材はその時代の物なのかもしれない。もちろん、耐震改修など、さまざまに手を加えている。
主屋は木造ツシ二階建一部平屋建で、屋根は切妻造桟瓦葺、今宮神社の参道に面して平入りの正面を向ける。主屋の東には参道に面して腕木門を配し、その奥である南側に接客用の離れがある。
参道に面した間口のほとんどを開口としており、木戸を開け放した室内全域に土間を設け、床几を並べ、接客空間としている。
さらに腕木門を挟んで東側には離れがあり、椅子座の部分と座敷の部分とがあり、庭に面して縁側が回っている。
今宮神社の東門に向かう参道の通り景観を形成している。文化財に値するといわれているが、様々な制約が想定されることから、現時点では「京都を彩る建物や庭園」に選定されるにとどめている。珍しいところでは、敷地内には水琴窟もあり、白蛇伝説の白蛇を祭る塚も残る。
通り庇の上には疫や難を家内に入れないように鍾馗さんが乗っている。いろいろと伝説のある鍾馗であるが、始まりは江戸初期。最初に鍾馗を上げた家の通り向かいの家の家人が原因不明の不治の病にかかった。鍾馗さんが追い払った疫が原因ではないかということで向かいの家も鍾馗を上げ、それが次々と連続していったといわれている。特に神社の前は、疫神がいる場所なので、鍾馗を上げている。けれども、真っすぐ正面を向くと、向かいの家に災いが襲うので、少し斜めに設置して、厄が次々と遠ざかるようにしている。地域に住むものとして一体の鐘馗さんを上げることはお互い暗黙の了解である。
ただし、「かざりや」の鍾馗さんは中国の鍾馗ではなく鬼やらいの「お多福」さんで珍しい。豆を持った「お多福」さんで、豆をまいて鬼を払い、福を入れる。他の地域では大黒天の鐘馗さんもあった。
地域のまちづくりについて
町の活性化というが、観光客の引っ張り合いをしても仕方がない。本当に大事なのは、地域の人たちが交流を通じてお互いを理解し良い方向へと向かっていくことである。その上で、例えば、近隣の人たちに京都での暮らしを体験してもらう、その体験を通じて、地域のいろいろな資源を深く理解すると同時に何より、地域住民との交流によって、またこの人と会いたい、もっと資源を深く知りたいと思ってもらえるようにすることである。
きっと難しいだろうけど、地域の高齢者にホストファミリーとなってもらって、たとえ一日でも一緒に暮らしてもらって、京都の生活の実態を感得してもらうことができればよいと思う。その代わりにゲストには話し相手になってもらう、庭掃除をしてもらう、家の片づけを手伝ってもらう、おばあちゃんのおばんざいを教えてもらう、などということができれば、双方にとってウィンウィンの交流ができると思っている。
また、住み方についても、いろいろあってよいと思う。滋賀県で農家をしている人が、閑散期には京都に来て住んでみるということがあっても良いし、その逆に農作業の繁忙期に農家のお手伝いに住み込みで行っても良い。そういう暮らし方を提案し交互交流することが生まれたら良いと思う。例えば空き家対策の一例として、こういう仕組みを作っても良いのではないかと思われる。イベントなどの一過性の取組は、それはそれで素晴らしいことなのだが、継続されないと本来の趣旨の意味を成し得ないと考える。新たなまちづくりの取り組みとして形にしていけたらと思う。
川池剛生氏の本業である企画や広告デザインの立場からの発言であるが、むらさきスタイルプロジェクトとコンセプトと合致するものであった。
基本情報
あぶり餅 本家 根元 かざりや
■住所 〒603-8243 京都府京都市北区紫野今宮町96
■交通 京都市バス「今宮神社前」停 下車 徒歩3分
■電話 075-491-9402