新町通北大路下ル 北区役所、文教施設の真ん中に
京菓子司の名店の暖簾が目に入る
京菓子司
京都の和菓子のお店には「菓子屋」(おかしや)と「饅頭屋」(おまんや)と「餅屋」(おもちや)の3つに分かれています。
「菓子屋」は「御菓子司」(おんかしつかさ)といい、「もてなし」の菓子を作るのが専門です。「饅頭屋」は庶民のおやつを、「餅屋」は赤飯や神仏へのお供え用のお餅を扱っているお店です。
日本の菓子の歴史は、古代人が採取して食べていた「果物」や「木の実」が始まりとされています。その後、朝鮮半島や唐の影響を受けて餅や唐菓子を食べるようになり、さらに宋、元の影響を受けて蒸羊羹(むしようかん)や薯蕷饅頭(じょうよまんじゅう)などが工夫され、公家貴族から一般庶民も楽しむようになります。さらに、ポルトガル船の漂着と共に砂糖や南蛮菓子が伝来し、カステラや金平糖(こんぺいとう)など甘いお菓子などを一部の上流階級の人たちが食べるようになります。お茶の世界でも千利休や古田織部の頃は、ヤキグリ、コブなど素朴なものだったようです。
その後、江戸期を通じて京都を中心としてお菓子の文化が発展していきます。京の菓子は、二十四節気(にじゅうよんせっき)をはじめとする四季の移ろいを大切にする精神性のもとに生まれ、茶の湯の発展とともに洗練され、旬の素材を使うだけでなく、意匠も季節を先取りして表現するものとなりました。また、古典文学や年中行事、史跡、名勝にちなんだ銘がつけられるようになると、味覚や触覚、嗅覚、視覚だけでなく聴覚を含む「五感」で楽しむものとなります。とりわけお茶の主菓子は象徴的、抽象的なものが多く、菓銘(かめい)から情景を思い浮かべ、五感で楽しみます。色や型が雅で「はんなり」とした柔らかい色調で、色目を重ねたりします。
再び、「菓子司」に戻ると、江戸時代以降京都で続いた上菓子(じょうがし)屋仲間という組合制度に由来します。当時、上菓子屋仲間は248軒と数が限られていて、組合に所属する御菓子司しか白砂糖を使うことを許されていなかったようです。
紫野源水の誕生
井上さんのご実家が二条城近くにあった京菓子の老舗の源水で、15年その店で修業をされた。その後、昭和59年9月に紫野源水を名乗ることを許されて奥様のご実家であったこの場所で独立される。当時、井上さんは30歳代半ばの働き盛りであった。
開店当初から、お茶席で使っていただく生菓子を提供するつもりでおられた。けれどもそれだけではなく、銘菓「松の翠」のように、ご進物や手土産に使っていただけるように、日持ちのする菓子も創作して、いろいろな方にご利用いただけるように取り組んでこられた。
この紫野という土地は奥様のご実家ということで開店されたが、振り返ると、お茶のお家元との関係もあり、贔屓にしていただくお客様もいらっしゃるので、悪いところではなかったとのこと。
生菓子は、その日のうちに食べていただくことを前提にしており、大量に作ってあちこちで販売するというお菓子ではない。その日のうちに売り切れる分を作って、店頭で販売することが精いっぱいである。それでも始めは、その見積もりができなくて、廃棄することも少なくなかった。徐々に慣れてきて捨てることはなくなったが、売り切れれば、それでお仕舞という商いにならざるを得ない。
紫野源水のお菓子
やはり、紫野源水のお客様はお茶の関係の方が多い。諸流派からのご注文をいただくだけでなく、お家元に替わって茶道の指導する資格をお持ちの先生からのご注文にお応えしている。その他にもお家でお茶を点てるのでお買い求めになったり、ご進物にご利用いただいたりしている。
とりわけ、茶席のお菓子は、一期一会で、その日のテーマに合わせてお菓子を創作することが多い。その茶席の亭主は、最大限の配慮をしてお客様をもてなそうと努められるが、菓子司も、その亭主の気持ちを汲んでその茶席にふさわしい主菓子を作るべく考案する。
そのために、古今和歌集に題材を求めるなど、感性を磨いておられる。そして、その時のひらめきでお菓子を誂える。お菓子の銘とうまくマッチして、お客様に「ああ、なるほど」と思ってもらえると、まずは成功である。閃いてお菓子ができた後で銘を付ける場合もあるし、銘があってお菓子が浮かんでくることもある。銘は、俳句の季語や古今和歌集、万葉集などからとっているとのこと。このため、店内に庭を設けたり。出窓や違い棚などの設えにも工夫を凝らしている。
これらは、開業してからいろいろな先生に教えていただきながら学んだとのこと。そういう点では、この紫野は先生方に恵まれていた。お客様で思いもかけない方が大学の先生であったりして、中途半端だときちんと指摘を受けたりする。
意匠についても、高名なお二人の先生について日本画の勉強をされている。そのうちのお一人は山口華揚氏のお弟子さんであり、店内には、その先生の白鷺の絵が一掛けられており、お手本であるような、お目付けであるような存在となっている。
そのため、紫野源水のお菓子には日本画の色彩の色合わせを感じさせられる。お菓子の意匠も具象は嫌われる。銘と合わせて「なるほど」とうならせるぐらいでないと京言葉でいう公道(こうとう:質素、堅実でありながらその場にふさわしい様)ではない。そして、色合いもそのものの色を付けると鮮やかすぎて食べにくかったりするとのこと。
店頭で販売する生菓子は、24節気とは言わないまでも季節ごとに誂えてお客様に喜んでいただいているが、お茶席の菓子は、店の菓子とは異なり、テーマや、花や器、掛け軸などの茶席の設えに合わせて、毎回、オリジナルを誂えられる。
菓子職人にとって最高の誉め言葉が「あ~、美味しかった」の一言であるとのこと。お菓子が、お茶のお手前や味、設え、お道具、お花の全てに程よく調和し、満足しているときに思わず出てくる言葉だと思っておられる。確かに、お茶席で、そのどれが掛けても、どことなく物足りなさを覚える。とりわけ、主菓子のウェートは大きい。
お菓子を介した人のつながり
お店に飾られているお花は、お客様が花器とともにお持ちになることがある。飾っておくのが怖いような花器の場合もあるのこと。これは、亭主だけが茶席を設えるのではなく、お客様と一緒にその場をより豊かなものしていく茶席の理につながるものがある。
最近では、海外のお客様もお見えになる。特に台湾のお客様は何度も買い求めに来られたりする。また、茶道の修業に来られている海外の方も、近くに研修センターがある関係で、良く来られる。
かつて日本では、お茶は花嫁道具の一つのように考えられ、免許をいただくために倣っておられる方が多かったが、最近は、本当にお茶が好きな方がお買い求めに来られ、店頭での話は尽きない。
伝統と革新
近頃のお茶席では、そうした伝統を破って、掛け軸の代わりに中近東のタペストリーをかけてみたり、器も海外のフリーマーケットで買い求めたようなものでもてなすなど、新しい趣向も見られるようになっている。
井上さんは、最近、ちょっと違うなと思うことがあるという。色合いといい、意匠といい、関東の真似をしているなと思うことがあるとのこと。京都の文化を支えてきていたものが無くなり、奥行きが無くなってきているのではないかと不安になってくる。干菓子の型にしても、本物を作れる人がいなくなってきており、最近手に入るものは、本来の京都のセンスとは異なっていたりする。木型の耐久性も無くなり、直ぐに劣化してしまう。
井上さんに「会心のお菓子は?」と聞くと、「うーん」としばらく考えられて「お茶席のお菓子は一つとして同じものは無い」と答えられた。お使い物していただくような日持ちのする銘菓「松の翠」のような菓子はいつも同じように作っているとのこと。けれども、今の季節になるとお客様が必ずお求めになるので誂えている雪餅(周囲の雪はつくね芋でこしらえ、中は黄身餡)のような生菓子は、毎回同じようには作れない。毎年、工夫しながらつくっているとのこと。いわんや、お茶席のお菓子は、お客様に喜んでいただいて初めて良くできたと言えるとのこと。
どんな伝統的な職人の技術も、最低10年の修業期間を必要とする。けれども、最近の若い人は、その間、無給で修業するなんてことはできないので、後継者を育てることは難しいとのこと。紫野源水のお菓子も当代限りとのことで、職人技が失われていくことは京都、日本にとってもったいないことである。
材料も京都にこだわり、ほとんどが丹波で調達している。漉し餡用の小豆は北海道が良いが、粒餡にするには、丹波、それも兵庫丹波でなく京丹波でなければ、風味が違うとのこと。山一つ越えるだけなのに品質が異なるので、京丹波しか使えない。けれども、近年、材料も良いものが少なくなってきている。
最近は京都以外の若いお客様も来られるようになっている。これを機会に、お菓子の良さを知っていただき、末永くお客様になっていただくことが伝統を継承することにつながるのではないかと期待されている。
店舗情報
所在地:京都市北区小山西大野町78-1
お問い合わせ:075-451-8857
定休日:日曜、祝日、月曜日